千家
02.千家二代 千小庵宗淳
はじめに ~ 千家二代 / 千小庵宗淳 ~
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❙出自
❙生没年❙
[生年] 天文十五年(1546)
[没年] 慶長十九年(1614) 九月七日
[享年] 六十九歳
❙出生❙
『[父]宮王三郎三入(生没享年不詳)』の子
『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の後妻『[母]千宗恩(生年不詳-1600)』の子
❙名❙
[幼名] 猪之助
[名] 四郎左衛門 / 宗淳
[号] 少庵
[通称] めんよ(名誉)の数寄者
❙兄弟❙
『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』の義弟
❙室❙
『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の六女『[妻]亀(喜室宗桂信女) (生年不詳-1587)』の夫
❙子❙
『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』
『[次男]山科宗甫(生年不詳-1666)』
『[長女]ねい(生没享年不詳)』
❙師事・門下
❙師事❙
[茶道]『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』
[参禅]『大徳寺百四十世/蘭叔宗秀(-1599)』
❙門下❙
『[連歌師]里村昌琢(1574-1636)』
『[千家十職]樂家/田中宗慶(1535-1595)』
『[釜師]辻家二代/辻与二郎(1546-1614)』
『[釜師]京名越家開祖/名越浄味(生年不詳-1638)』
『[釜師]西村家開祖/西村道仁(1504-1555)』
❙生涯・事績
『[父]宮王三郎三入(生没享年不詳)』と『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の後妻『[母]千宗恩(生年不詳-1600)』の子として生まれる。
『[母]千宗恩(生年不詳-1600)』が『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』と再婚したため『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の『養子』となり『千家』に入る。
しかし『千少庵宗淳(1546-1614)』は幼少の頃より先天的な病により片足に障害があり、同年代でありながら千家本家の『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』がいることなどもあり千家内での立場が弱かった事実が確認されている。
その後『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の女『[妻]亀(喜室宗桂信女) (生年不詳-1587)』を娶り天正六年(1578)には『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』が生まれる。
天正八年(1580)頃に上洛し大徳寺門前に屋敷を構え『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』や『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』同様に『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の『茶頭』となり茶の湯の普及に尽力『めんよの(名誉)の数寄者』との評を得る。
また同十三年(1585)『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の入居によって「京都/二条堀川衣棚」に移ったが同十八年(1590)洪水のため本法寺前に移住する事となる。
天正十九年(1591年)『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の切腹後は高弟であった会津の『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556-1595)』を頼り会津若松の「鶴ヶ城」に身を潜める。
その後三年の年月を経た文禄三年(1594)『[五大老/征夷大将軍]徳川家康(1543-1616)』『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556-1595)』の嘆願により文禄三年(1594)に赦免され『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』所持の道具類の返却を受け『京都/本法寺』前の地に四百五十石を賜り、利休遺跡の『不審庵』を再興。
また文禄四年(1575)初秋には『大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)』に利休号の解義をもとめている。
以後の茶匠活動は盛んで大徳寺の『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)』『大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)』『大徳寺百四十一世/雲英宗偉(1559-1603)』らと詩歌や俳諧をするなど交誼も厚く、特に『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の高弟であった『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563-1646)』からは格別の恩顧を受ける。
『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』が堺の千家本家を継ぎ、後嗣を得ないまま早々に断絶したため、京の千家を継いだ『千少庵宗淳(1546-1614)』が本流となり『千家』を継承。
『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』の『剛(動)』に対して『千少庵宗淳(1546-1614)』の茶は『柔(静)』と評されたという。
しかし『千少庵宗淳(1546-1614)』はわずか数年で隠居し、家督を『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』に譲っている。
その後は生涯「仕官」もせずに茶の湯の普及に尽力したという。
❙号❙
『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』から『少』の『扁額(斎号)』を授かる。
❙茶室❙
『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の切腹後の『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556-1595)』に匿われている期間に福島県の会津若松市に茶室『麟閣』を創っている。
『千少庵宗淳(1546-1614)』が赦免により京に戻った後も大切に使用されたという。
❙御好❙
『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』との合作をはじめ『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の流れを汲んだわびたものなど御好茶道具や書付道具は後世に多く伝えられている。
❙辞世の句❙
「末期一喝・倒破牢関・活機転去・緑水青山」
と辞世の句を残している。
❙千家歴代一覧
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四代 逢源斎 江岑宗左
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五代 随流斎 良休宗左
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六代 覚々斎 原叟宗左
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七代 如心斎 天然宗左
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八代 啐啄斎 件翁宗左
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九代 了々斎 曠叔宗左
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十代 吸江斎 祥翁宗左
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十一代 碌々斎 瑞翁宗左
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十二代 惺斎 敬翁宗左
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十三代 即中斎 無盡宗左
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十四代 而妙斎 宗旦
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当代 猶有斎 宗左
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四代 臘月斎 仙叟宗室
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五代 不休斎 常叟宗室
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六代 六閑斎 泰叟宗室
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七代 最々斎 竺叟宗室
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八代 又玄斎 一燈宗室
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九代 不見斎 石翁宗室
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十代 認徳斎 柏叟宗室
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十一代 玄々斎 精中宗室
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十二代 又玅斎 直叟宗室
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十三代 圓能斎 鉄中宗室
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十四代 無限斎 碩叟宗室
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十五代 鵬雲斎 汎叟宗室
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当代 坐忘斎 玄黙宗室
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次代 丹心斎 宗史
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四代 似休斎 一翁宗守
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五代 許由斎 文叔宗守
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六代 静々斎 真伯宗守
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七代 直斎 堅叟宗守
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八代 一啜斎 休翁宗守
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九代 好々斎 仁翁宗守
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十代 以心斎 全道宗守
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十一代 一指斎 一叟宗守
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十二代 愈好斎 聴松宗守
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十三代 有隣斎 徳翁宗守
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十四代 不徹斎 宗守
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当代 随縁斎 宗屋