千利休宗易
10.ゆかりの人々
はじめに
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❙ はじめに ~ 魅力の再発見 ~
テスト
❙ 利休の師 ~ ~
利休が師事した三人の師。
❙北向道陳❙
~ きたむき・どうちん ~
永正元年(1504年)-永禄五年(1562年)一月十八日
室町時代後期の堺の茶匠で、空海に茶の湯を学びます。
千利休の最初の師であり、後に、武野紹鴎に利休を推薦し引き合わせたといわれます。
道陳の茶は、能阿弥の影響が強い書院の茶とされています。
❙古渓宗陳❙
~ こけい・そうちん ~
天文元年(1532年)-慶長二年(1597年)一月十七日/六十六歳
安土桃山時代、臨済宗の禅僧であり、蒲庵古渓(ほあんこけい)とも呼ばれます。
大徳寺の住持となり千利休に禅を教え参禅の師となります
❙武野紹鴎❙
~ たけの・じょうおう ~
文亀二年(1502年)-弘治元年(1555年)十月二十九日
室町時代末期の堺の武具商人で、歌人であり茶匠です。大徳寺で禅の修行をし、「紹鴎」の号を得ています。
十四屋宗伍に茶を学び、茶の湯の簡素化、草体化を進め侘茶を完成させることになります。北向道陳に次ぐ千利休の茶の湯の師として知られています。
❙ 天下三宗匠 ~ ~
『[大名]織田信長(1534-1582)』の茶の湯には京衆の『不住庵梅雪(生没享年不詳)』らが参仕していたが『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』・『[茶人/天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591)』・『宗易』を『三宗匠』として優遇。その後『[大名]織田信長(1534-1582)』の『茶頭』となり『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』、『[茶人/天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591)』と共に茶湯の『天下三宗匠』と称される。
❙津田宗及❙
~ つだ・そうぎゅう ~
生年不詳-天正十九年(1591年)四月二十日
安土桃山時代の堺の豪商で、武野紹鴎の門人であった父宗達に茶道を教わり、織田信長、次いで豊臣秀吉の茶頭を務めます。また、大徳寺で禅を学びます。
千利休、今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、北野天満宮で開催した北野大茶湯ではこの三人が指導役をつとめました。
❙今井宗久❙
~ いまい・そうきゅう ~
永正十七年(1520年)-文禄二年(1593年)八月五日/七十三歳
戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人。堺にて茶を武野紹鴎に学び、その後娘婿となります。
千利休、津田宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、織田信長の茶頭となり、本能寺の変後は豊臣秀吉にも茶頭として仕えます。
茶会記として『今井宗久茶湯書抜』二巻があり、八十三回の茶会記が収められています。
❙ 利休三門衆 ~ ~
『利休門三人衆』とは利休門下の武将のなかで、茶湯に特に優れていた三人で後述の『利休七哲』の中にも含まれる。
❙蒲生氏郷❙
~ がもう・うじさと ~
永正元年(1504年)-永禄五年(1562年)一月十八日
室町時代後期の堺の茶匠で、空海に茶の湯を学びます。
千利休の最初の師であり、後に、武野紹鴎に利休を推薦し引き合わせたといわれます。
道陳の茶は、能阿弥の影響が強い書院の茶とされています。
❙細川忠興(三斎)❙
~ ほそかわ・ただおき(さんさい) ~
永正元年(1504年)-永禄五年(1562年)一月十八日
室町時代後期の堺の茶匠で、空海に茶の湯を学びます。
千利休の最初の師であり、後に、武野紹鴎に利休を推薦し引き合わせたといわれます。
道陳の茶は、能阿弥の影響が強い書院の茶とされています。
❙芝山宗綱(監物)❙
~ しばやま・むねつな(けんもつ) ~
永正元年(1504年)-永禄五年(1562年)一月十八日
室町時代後期の堺の茶匠で、空海に茶の湯を学びます。
千利休の最初の師であり、後に、武野紹鴎に利休を推薦し引き合わせたといわれます。
道陳の茶は、能阿弥の影響が強い書院の茶とされています。
❙ 利休七哲 ~ ~
千利休に弟子入りした武将や大名のうち、高弟として挙げられる七人を指す呼称。(備考:当時の呼称ではなく後世に生まれた呼称)。
『塗師/松屋久重(1567-1652)』の編になる『茶道四祖伝書』に「七人衆」として「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」「高山南坊」「牧村兵部」「古田織部」「前田利長」、の七人の記述が初見であり、また寛文三年(1663)に『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)/歳』が記した『江岑夏書(1663年)』にも「利休弟子七人衆」とし「前田利長」が「瀬田掃部」に入れ替わり記述されている。
その後もいろいろな茶書にて記述がみられ「有馬豊氏」や「金森長近」を加えるなどそれぞれ挙げられる七人の記述が変わっているが一貫して「蒲生氏郷」と「細川忠興」の二人は記述されている。
今日の認識では『江岑夏書(1663年)』に記述されていた「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」「高山南坊」「牧村兵部」「古田織部」「瀬田掃部」が一般的と考えられる。
❙高山南坊(右近)❙
~ たかやま・みなみのぼう(うこん) ~
出自は不明。
安土桃山時代の武将で、初めは織田信長に仕えますが、後に豊臣秀吉に従います。
千利休に茶道を学び、蒲生氏郷、細川忠興と共に茶湯に優れた人物として利休門三人衆に数えられた武将の一人です。天正九年(1581)には津田宗及や山上宗二らを招いて茶会を行なっています。
利休から長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られるなど、利休とは懇意であったようです。
❙牧村利貞(兵部)❙
~ まきむら・としさだ(ひょうぶ) ~
永正元年(1504年)-永禄五年(1562年)一月十八日
室町時代後期の堺の茶匠で、空海に茶の湯を学びます。
千利休の最初の師であり、後に、武野紹鴎に利休を推薦し引き合わせたといわれます。
道陳の茶は、能阿弥の影響が強い書院の茶とされています。
❙古田重然(織部)❙
~ ふるた・しげなり(おりべ) ~
天文十二年(1543年)-慶長二十年(1615年)六月十一日/七十三歳
戦国時代後期から江戸時代初期にかけての武将です。
千利休の弟子として利休七哲に数えられ、利休が秀吉の怒りをかい、堺に蟄居を命じられた際、秀吉の権威を恐れず細川忠興と共に淀の船着場まで見送りに行っています。
千利休亡きあとは、織部流の武家茶道を確立し、茶の湯名人として天下の茶人になりました。また、その作意は織部好みとよばれ、茶室に興福寺八窓庵、藪内家燕庵などがあり、織部焼、織部灯籠などにその名をとどめています。
❙▽前田 利長❙
~ まえだ・としなが ~
永禄五年(1562年)一月十二日-慶長十九年(1614年)五月二十日/五十三歳
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、初代加賀藩主となりました。
父と共に織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えます。
文禄二年(1593年)十月、前田利長の邸宅にて茶会を開き、徳川家康を招いています。
❙△瀬田正忠(掃部)❙
~ せた・まさただ(かもん) ~
天文十七年(1548年)-文禄四年(1595年)八月十日/四十八歳
戦国時代の武将で、豊臣秀吉に仕えます。通称清右衛門といい、官位に由来する「瀬田掃部」という名で知られます。
茶人であり、千利休の高弟です。また、茶杓削りの名手だったそうで、多くの茶杓が現在まで伝えられています。
文禄四年(1595年)に、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられた豊臣秀次と共に処刑されました。
❙▲有馬豊氏❙
~ ありま・とようじ ~
永禄十二年(1569年)五月三日-寛永十九年(1642年)九月三十日/七十四歳
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、初めは豊臣秀吉に仕えます。秀吉の死後、徳川家康に仕え家康の養女連姫(松平康直の娘)を妻とします。
茶人としても有名で、千利休の高弟であり利休七哲の一人です。家康から燕脂屋肩衝の茶入を贈られました。
❙▲金森長近❙
~ かなもり・ながちか(かもん) ~
大永四年(1524年)-慶長十三年(1608年)八月十二日
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、茶人です。織田家に仕官して織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えます。
千利休や古田重然らに茶の湯をならい、茶の道においては孫の金森宗和によって金森家の茶道は大成を成し遂げます。
❙ 利休十哲 ~ ~
利休十哲とは寛政年間(1789~1801年)頃に著された「古今茶人系譜」以降にみられるもので前述の「利休七哲」に「織田有楽斎」、「千道安」、「荒木村重」の三人を加えた十人の呼称である。
❙織田長益(有楽斎)❙
~ おだ・ながます(うらくさい) ~
天文十六年(1547年)-元和七年(1621年)十二月十三日/七十五歳
織田信長の十三歳年下の弟であり、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人です。
千利休に茶道を学び、利休七哲(十哲とも)の一人で、本能寺の変の後、剃髪して有楽斎と称し茶道有楽流を創始しました。京都建仁寺の正伝院に茶室如庵を建て、現在は国宝に指定されています。如庵は現在、愛知県犬山市の有楽苑に移されています。
❙千紹安(道安)❙
~ せん・しょうあん(どうあん) ~
天文十五年(1546年)-慶長十二年(1607年)二月十七日/六十二歳
千宗易(千利休)の長男で、安土桃山時代から江戸前期の茶人です。父利休とともに茶頭として豊臣秀吉に仕えます。
利休の死後は、京都を離れます文禄三年(1594年)に徳川家康や前田利家の計らいにより堺に戻ったのち「堺千家」を再興します。
しかし、道安には跡継ぎがなく、道安の死去と共にこの堺千家は断絶しました
❙荒木村重(道薫) ~ あらき・むらしげ(どうくん) ~❙
天文四年(1535年)-天正十四年(1586年)五月四日/五十二歳
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、茶人です。初めは池田氏、さらに三好氏に属し、天正一年(1573年)に織田信長に仕えます。信長の死後は、茶の道で豊臣秀吉に仕え、そこで茶人「道薫」として復帰、千利休とも交流するなど、意外な才能を示し利休七哲(十哲とも)の一人として数えられます。