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千利休宗易

利休年表

​❙目次❙

めに

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❙利休年表​  大永二年(1522年) - 天正十九年(1591​年) ~
大永二年​(1522年)

 0歳 

幼名:与四郎

『商家「魚屋(屋号)」』であり『納屋衆(倉庫業)』である『[父]千(田中)与兵衛(一忠了専)(生年不詳-1540)』と『[母]月岑妙珎(生没年不詳)』の子として和泉国(泉州)、堺の今市町に生まれる。

※現在の堺市堺区宿院町西一丁目

天文四年​(1535年)

 14歳 

『念仏差帳日記』の4月28日の条に「堺/念仏寺の築地修理に銭一貫文を寄進」として「与四郎殿 せん」の名が記されている。

※これが歴史史料における「千利休」の初見とされる。

天文六年​(1537年)

 0歳 

『松屋会記』の9月13日の条に「京都/与四郎」が奈良の塗師『[塗師/茶人]漆屋松屋源三郎家/松屋久政(1521-1598)/78歳』を朝会に招いたとの記がある。

天文七年​(1538年)

 17歳 

この年より『[茶匠]北向道陳(1504-1562)/59歳』のもとで茶の湯を学ぶ。

天文九年​(1540年)

 19歳 

この頃より『[茶匠]北向道陳(1504-1562)/59歳』を介し『[茶人]武野紹鷗(1502-1555)』から茶を学び弟子となる。

『[父]田中与兵衛(一忠了専)(生年不詳-1540)』没

天文十三年​(1544年)

 23歳 

『松屋会記』の2月27日の条に「堺/千宗易」が『[茶祖]村田珠光(1423-1502)/80歳』が出家したことで知られる奈良/『[浄土宗西山派]称名寺の住職『[浄土宗僧]称名寺住職/恵遵房(生没年不詳)』と奈良の塗師『[塗師/茶人]漆屋松屋源三郎家/松屋久政(1521-1598)/78歳』の二人を招き一会を催した記がある。

※歴史史料における「千利休自会」および「宗易」の初見とされる。

天文十四年​(1545)

 24歳 

この頃までに『[臨済宗大本山]大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)/89歳』or『[臨済宗大本山]大徳寺百七世/笑嶺宗訢(1490-1568)/78歳』より『利休宗易』の号を与えられたのではないかと考えられる。(※諸説あり)

天文十五年​(1546年)

 25歳 

長男の『[茶匠/利休十哲]堺千家/千紹安(道安)(1546-1607)/62歳』が誕生。(母は『[千利休先妻]宝心妙樹(生年不詳-1577)』)。
また後に養子となる『千家二代/千少庵(1546-1614)/69歳』が誕生。(※『[千利休後妻]千宗恩(生年不詳-1600)/享年不詳』の連子)

弘治元年(1555年)

 34歳 

『[茶人]武野紹鷗(1502-1555)』『[豪商/茶人]天王寺屋/津田宗達(1504-1566)/63歳』らを茶会に招き、『[禅僧/水墨画家]牧渓(生没享年不詳』の自画像を掛け、「珠光茶碗」を用いる。

[茶人]武野紹鷗(1502-1555)』没

永禄元年​(1558年)

 37歳 

『[茶人]石橋良叱(生没年不詳)』と『[三女]三(生没年不詳)』が結婚。

永禄三年(1560年)

 39歳 

この頃『[豪商/茶人]山上宗二(1544-1590)/47歳』を弟子にする。

[12月]『[茶匠]北向道陳(1504-1562)/59歳』、『[豪商/茶人]天王寺屋/津田宗達(1504-1566)/63歳』、『[豪商/茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)/73歳』らを茶会に招き、「建盞天目茶碗」を用いる。

永禄五年(1562年)

 41歳 

[1月18]

『[茶匠]北向道陳(1504-1562)/59歳』没

[11月26日]

『[塗師/茶人]漆屋松屋源三郎家/松屋久政(1521-1598)/78歳』を訪れ「松屋三名物」を拝見。

永禄8年(1565年)

 44歳 

[1月29日]

『[武将]松永久秀(1510-1577)/67歳』は大和国の多聞山城の茶に『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』を招き、天下一の名物と称された「九十九髪茄子の茶入」を用いる。

永禄十一年(1568年)

 47歳 

[1月29日]

『[天下人]織田信長(1534-1582)』が大坂/堺の制圧にのりだす。

『[豪商/茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)/73歳』は抗議する堺衆を説得し、自身の「松島の茶壺」と「紹鴎茄子の茶入」を『[天下人]織田信長(1534-1582)』に献上。

永禄十二年(1569年)

 48歳 

[4月]

この頃より『[天下人]織田信長(1534-1582)』は京都に入り名物狩りをおこない「初花肩衝茶入」など入手。

[5月]

茶会においてはじめて『[臨済宗楊岐派]圜悟克勤(1063-1135)/歳』の墨跡を掛ける。

元亀元年(1570年)

 49歳 

[2月3日]

『[豪商/茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)/73歳』らを招いた茶会において大徳寺の開山、『[臨済宗大本山]大徳寺開祖/宗峰妙超(大燈国師)(1283-1338)/55歳』の墨跡を掛ける。

[4月2日]

『『[天下人]織田信長(1534-1582)』の御前において『[豪商/茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)/73歳』に薄茶を点て振舞う。

元亀三年(1572年)

 51歳 

[12月8日]

大坂/堺の『[臨済宗大徳寺派]南宗寺』にて兄『[兄(異母兄弟)]千康隆(生没年不詳)』とともに父『[父]千(田中)与兵衛(一忠了専)(生年不詳-1540)』の三十三回忌の法要を営む。 

天正元年(1573年)

 52歳 

[9月15日]

『[臨済宗大本山]大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)/66歳』の『京都/大徳寺』入寺に奉加として「利休銭百貫文」、「宗及五十寛文」、「宗巴十寛文」「利休内寛文」を寄進。

[11月23日]

『『[天下人]織田信長(1534-1582)』が『京都/妙覚寺』において堺衆を招いておこなわれた茶会にて薄茶を点て振舞う。

天正二年(1574年)

 53歳 

この頃『[天下人]織田信長(1534-1582)』の茶頭となり、「抛筌斎」の斎号を用いる。

[3月24日]

『[天下人]織田信長(1534-1582)』が『京都/相国寺』において堺衆を招いておこなわれた茶会にて特別に『千鳥の香炉』を拝見。

[3月27日]

『[天下人]織田信長(1534-1582)』の奈良下向に供奉し、『奈良/正倉院』の名香「蘭奢待」の切取を拝見。

[4月3日]

『[天下人]織田信長(1534-1582)』、『京都/相国寺』に『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』と『[豪商/茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)/73歳』を招き「初花肩衝茶入」を披露。

また信長は利休と宗及の2人名だけが名物香炉を所持していたために正倉院名物の名香「蘭奢待」を下賜。

天正三年(1575年)

 54歳 

[9月16日]

『[天下人]織田信長(1534-1582)』の越前出陣に際し鉄砲弾千個を贈り、返礼の黒印状を遣わされる。

天正四年(1576年)

 55歳 

この頃、『[六女]亀(喜室宗桂信女) (生年不詳-1587)』と義息『千家二代/千少庵(1546-1614)/69歳』が結婚。

天正五年(1577)

 56歳 

『[千利休先妻]宝心妙樹(生年不詳-1577)』没。

天正六年(1578)

 57歳 

この年に孫の『千家三代/咄々斎千元伯宗旦(1578-1658)/81歳』が誕生。
またこの頃に『[千利休後妻]千宗恩(生年不詳-1600)/享年不詳』と再婚。
[10月15日]
『[天下人]織田信長(1534-1582)』に茶の湯を許され『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が播州三木で口切の朝会を催す。

天正八年(1580)

 59歳 

この年以前に『千家二代/千少庵(1546-1614)/69歳』は大徳寺山門前の屋敷に居住。
[12月9日]
『[豪商/茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)/73歳』を招いた茶会において「かたのたたれる釜」、「ハタノソリタル茶碗」を用いる。

天正十年(1582)

 61歳 

この頃に千利休が京都/山崎の妙喜庵内に二畳茶室『待庵(国宝)』を建造。

​6月2日/本能寺の変

『[天下人]織田信長(1534-1582)』​没

天正十一年(1583年)

 62歳 

 5月24日 
『津田宗及茶湯日記』の天正11年5月24日の条には、『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の催した坂本城朝会の中に『茶堂宗易』と見え、この頃までには『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の『茶頭』になっていたと考えられる。
[6月]
大阪城落成。『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』入城。
[7月7日~13日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が大阪城にて催した「七夕会」をはじめ七日間の茶会に尽力。
[9月16日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が大阪城にて催した「御道具そろへ」において所蔵の名物茶器五種を供する。
[11月29日]
『[臨済宗大本山]大徳寺百七世/笑嶺宗訢(1490-1568)/78歳』没。

天正十二年(1584年)

 63歳 

[3月10日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が従三位権大納言に叙任される。
[10月15日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が当代の大茶の湯者を大阪城に集めた茶会において茶頭を努める。

天正十三年(1585年)

 64歳 

この頃より『千家二代/千少庵(1546-1614)/69歳』にかわり大徳寺門前の屋敷に居を構え、この屋敷内に四畳半茶室「不審庵」を営む。(※諸説あり) 
[3月10日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が正二位内大臣に叙任される。
[7月13日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が関白宣下を受ける。
[9月下旬]
『[臨済宗大本山]大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)/66歳』選定の『利休居士』号を『第百六代天皇/正親町天皇(1517-1593)』より勅賜される。
(※『[臨済宗大本山]大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)/89歳』選定ともされる。)
また同月『[臨済宗大本山]大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)/66歳』より『利休居士号賀頌』を贈られる。
[10月7日]
京都御所において『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が正親町天皇に茶を献じ、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』も後見役として仕え、天皇還御後に親王や公家衆に台子の茶の湯を献じている。
また同日「利休居士 宗易(花押)」と署名した御所会記を『[臨済宗大本山]大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)/83歳』に送り、奉仕の茶会記録を『[臨済宗大本山]大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)/66歳』に書き贈っている。
[12月20日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』は大阪城内の「黄金の茶室」を『[大名/五大老]長州藩藩祖/毛利輝元(1553-1625)/73歳』の使者であった『[武将/五大老]竹原小早川家十四代/小早川隆景(1533-1597)/65歳』に見せ『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』に茶を振舞わせた。

天正十四年(1586年)

 65歳 

[1月6日]
年頭の参内において『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』は黄金茶室を禁中に移し茶会を行い、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』が茶頭をつとめる。
[9月9日]
同時に『第百六代天皇/正親町天皇(1517-1593)』より『豊臣』の姓を賜り、豊臣政権を確立。
[10月13日]
『松屋会記』によると奈良の『中坊源吾(生没年不詳)』の朝会において「宗易形ノ茶ワン」と記される。(※おそらくこれが「長次郎茶碗(樂茶碗)」の初見とされる。)
[10月23日]
大和郡山の『尾崎嘉助(生没年不詳)』の茶会において「今ヤキ茶ワン」と記述あり。
[12月19日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が太政大臣に叙任される。

天正十五年(1587年)

 66歳 

この年の3月頃までに「京都/聚楽第」の北東角(現:京都市葭屋町通元誓願寺下ル)に位置する場所に「聚楽屋敷(通称:利休屋敷)」を構え、邸内には書院他に「四畳半」、「一畳台目」の茶室が作られたと伝えられている。
(※書院は色付九間書院と呼ばれ、現表千家の『[茶室]残月亭』のもとになったと伝えられています。)
[6月]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の島津征伐に随行。
[9月13日]
「京都/聚楽第」完成に伴い、『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』も大坂城より京都へ移る。
[9月15日]
弟の『[弟]千(奈良屋)宗把(生没年不詳)』に「北野大茶の湯」への参会のため、堺衆の上洛を促す書状を送る。
[10月1日]
「京都/北野天満宮」において、「北野大茶の湯」が開かれ『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』は『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』所持の名物茶器にて一席を設ける。
[10月12日]
『[大名/利休門三人衆]肥後細川家初代/三斎流開祖/細川(三斎)忠興(1563-1646)/83歳』、『[大名/利休七哲]織部流開祖/古田織部重然(1544-1615)/72歳』と共に「聚楽第」に『[商人/茶人]神谷宗堪(1551-1635)/84歳』を招き茶会を催す。

天正十六年(1588年)

 67歳 

[1月7日]
聚楽屋敷の四畳半茶室にて催した朝会に『[大名/五大老]加賀藩主前田家初代/前田利家(1539-1599)』を含む17名を招く。
[9月4日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の怒りに触れ筑前大宰府へ流罪となった『[臨済宗大本山]大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)/66歳』の送別茶会を聚楽屋敷にて催す。

天正十七年(1589年)

 68歳 

この頃以前に大徳寺山門の修築を開始したとされる。
[1月]
亡き父母他の追善供養のため「大徳寺/聚光院」に永代供養料米七石を寄進し併せて千家の菩提寺と定める。
[7月16日]
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』の尽力により『[臨済宗大本山]大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)/66歳』の流罪赦免となる。
[12月5日]
修復を寄進した大徳寺山門「三毛閣」が完成。
同時に三門の楼上に「利休の木像」が安置され、落慶法要を営む。
[12月8日]
利休、『[父]千(田中)与兵衛(一忠了専)(生年不詳-1540)』の五十回忌法要を営む。

天正十八年(1590年)

 69歳 

[3月]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の北条攻めに随行。
[4月11日]
高弟の『[豪商/茶人]山上宗二(1544-1590)/47歳』が『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の怒りに触れ相州小田原にて処刑される。
[6月20日]
相州小田原で「竹一重花入「園城寺」」を削り、「武蔵鐙の文」の書状を添えて『[大名/利休七哲]織部流開祖/古田織部重然(1544-1615)/72歳』に送る。
[8月17日]
最晩年の茶会記である『利休百会記』の記述をはじめる。
[9月10日]
聚楽屋敷に『珠主座(生没年不詳)』、『[商人/茶人]神谷宗堪(1551-1635)/84歳』を招き「黒茶碗」を用い茶会を催す。

天正十九年(1591年)

 70歳 

[1月18日]
息女が自害。
(※『南方録』によると『[三女]三(生没年不詳)』、『[六女]亀(喜室宗桂信女) (生年不詳-1587)』を除くいずれかの息女が自害。)
[1月20日]
この頃より大徳寺山門の楼上に安置された「利休の木像」が問題となる。
[1月22日]
『[大名]大和郡山城主/豊臣秀長(1540-1591)/52歳』没。
[1月22日]
「利休の木像」の件に付き、不謹慎であるとの弾劾が行われる。
また『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』は『[臨済宗大本山]大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)/83歳』を訪ねて相談後帰宅。
同日、所持の『狂言袴茶碗「引来鞘」』を進上する旨の「書状(引木鞘の文)」を認め、『狂言袴茶碗「引来鞘」』と共に『[大名/利休門三人衆]肥後細川家初代/三斎流開祖/細川(三斎)忠興(1563-1646)/83歳』に贈る。
[2月4日]
秘蔵の「橋立の茶壷」を預ける「書状(横雲の文)」を認め「橋立の茶壷」と共に「大徳寺/聚光院」に預ける。
[2月14日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』より大坂/堺への蟄居が命じられる。
※淀の渡しから堺の津へと戻る際に『[大名/利休門三人衆]肥後細川家初代/三斎流開祖/細川(三斎)忠興(1563-1646)/83歳』と『[大名/利休七哲]織部流開祖/古田織部重然(1544-1615)/72歳』の二名が淀の船着場にて見送りに赴く。

同日『[大名/利休門三人衆]肥後細川家初代/三斎流開祖/細川(三斎)忠興(1563-1646)/83歳』と『[大名/利休七哲]織部流開祖/古田織部重然(1544-1615)/72歳』が見送りをしてくれた御礼を伝えてもらうように依頼した「書状」を『[武将]細川家家老/松井康之(1550-1612)/63歳』宛に贈る。

[2月15日]
自身を心配し「消息」を使者に届けさせた『[武将/利休門三人衆]芝山監物宗綱(生没享年不詳)』に返礼の「書状」を認め贈る。

[2月16日]
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』より切腹の申し渡し
[2月24日]
死を覚悟し、千家の家督相続から縁戚の者への自身の財産処分などを認めた「書状(末期の文)」を認める。

[2月25日]
大徳寺山門の「利休の木像」が一条戻橋に磔刑に処せられる。

[2月26日]
蟄居先の大坂/堺から京都の聚楽屋敷に戻どされる。
[2月28日]
朝、孫の『千家三代/咄々斎千元伯宗旦(1578-1658)/81歳』へ「辞世の偈」と「和歌」を認めた後、聚楽第にて切腹し生涯を閉じる。


※切腹にあたっては『[刀鍛冶]粟田口吉光(生没年不詳)』作の『短刀「吉光」』が用いられたという。

※『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)/70歳』も自害後、長男『[茶匠/利休十哲]堺千家/千紹安(道安)(1546-1607)/62歳』は飛騨高山の『[武将/利休十哲(※)]金森長近(1524-1608)』の元へ、養嗣子の『千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)/69歳』は会津の『[キリシタン大名/利休門三人衆]陸奥黒川城主/蒲生氏郷(1556-1595)/40歳』の元へ預けられる。
 

文禄三年(1594年)

 没後 

[11月13日]

『[将軍/五大老]徳川幕府初代/徳川家康(1543-1616)/75歳』と『[キリシタン大名/利休門三人衆]陸奥黒川城主/蒲生氏郷(1556-1595)/40歳』により『千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)/69歳』の赦免を 『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』に懇願。

両名の署名入りの「連署状(少庵召出状)」にて『千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)/69歳』は京都に戻り「京都/千家」を再興することとなる。

❙千利休宗易❙
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