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茶道の歴史

06.茶道の大成

❙​めに​  ​わび茶の精神 ~

『[茶祖]村田珠光(1423-1502)』の提唱した『わび茶』は『[茶人]武野紹鷗(1502-1555)』へ引き継がれ『[天下人]織田信長(1534-1582)』の登場により『茶の湯』は歴史上最大の隆盛期を迎えることになる。

 そしてこの『茶の湯』隆盛期の中、茶道史上最重要人物が登場し、『[天下人]織田信長(1534-1582)』没後、『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』と共に『茶の湯』に礼法を加え今日まで続く『道』を切り開く事となる。

その人物が導いた『道』がどのような道筋をたどったのか、そして今日の『茶道』の原点となる『茶の湯』の隆盛期をご紹介いたします。

の隆盛期​  天下人の功績 ~

天正十年六月二日に起こった『本能寺の変』により『[天下人]織田信長(1534-1582)』が自害。

後ろ盾を無くし衰退をも覚悟した『茶の湯』ではあるが『[天下人]織田信長(1534-1582)』の亡き後、天下を引き継いだ『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』により『茶の湯』文化はより一層の隆盛を迎え「大名」「武士」「戦」「政治」など当時のあらゆる場面で登場する事となる。

そして『茶の湯』『茶道具』は非常に強大な力を持つことになり、茶道史上で最高潮の時期を迎える事となる。 

隆盛を迎えた『茶の湯』を象徴する出来事に天正十三年(1585)十月に催された「関白」任命による『[第百六代天皇]正親町天皇(1517-1593)』の御所内で行われた『禁中茶会』と天正十五年(1587)十月に催された京都/北野の『北野天満宮』で行われた『北野大茶湯』があげられる。

そして『[天下人]織田信長(1534-1582)』に引き続き『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が催すすべての『茶会』を『茶堂』として支えたのが『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』であり自身も『筆頭茶堂』として強力な力を持ち政治中枢にも大きな影響力を持つことになる。

 同時にそれは『茶の湯』が強力な力を持っていることを示すこととなり、後に『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』と『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』が対立する火種にもなることになる。

の大成者​  茶と生きる ~

『[天下人]織田信長(1534-1582)』に仕えた『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』は大阪/堺の『納屋衆』と呼ばれた海外貿易などを一時保管する倉庫、納屋を経営する家に生まれる。

 若年の頃より『[茶匠]北向道陳(1504-1562)』らに『茶』を学び、『大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)』について『禅』の修行をし『宗易』の号を得ている。

 今日においても『茶の湯の大成者』と呼称される『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』であるが意外なことに『[天下人]織田信長(1534-1582)』に『筆頭茶道』として仕えたのは五十代になってからのことである。

 そして『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』が『大茶人』として名が知れ渡るのは天正十年(1582)六月二日に起こった『本能寺の変』にて『[天下人]織田信長(1534-1582)』が自害し、後を引き継いだ『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』に仕えてからのことである。

 しかしその後わずか数年後に歴史が動く事件が起こることとなる。

『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』は応仁元年(1467)に発生した『応仁の乱』により焼失し、一層のみ復興されていた『大徳寺』において三門の二層部分の造営寄進を独力でおこない、後に『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』はこの階上に雪駄を履いた利休像が安置されたことを見とがめ『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』に切腹を命じる事となる。

 

『[天下人]織田信長(1534-1582)』『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』と二人の天下人の『筆頭茶道』として仕えた『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』は茶の湯の隆盛期を迎えると共にあまりにも強大な力を持ったことで天正十九年七十歳に自刃しその生涯を閉じる。

千利休宗易については別ページにて解説をしていますので下記よりお進みください。

のアイデア​  総合プロデューサー ~

今日の『茶道』における最重要人物である『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』であるが茶道史上においてその影響力を発揮した活動期間は五十代の頃より仕えた『[天下人]織田信長(1534-1582)』時代とその後の『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』時代わずか十数年である。

 しかしその中においても今日に遺した功績は計り知れず『建築物』『茶道具』『料理』などその改革は多岐にわたる。

❙建築物❙

『建築物』の改革には『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』は『茶の湯』を『わび』の精神に徹したもっとも簡略な形にしようと『茶室』の改革にあたっている。

天正十年(1582)頃には二畳敷きという小さな茶室『待庵(現:国宝)』を建築。

周囲を土壁で囲い『茶室』の入口に小さな躙口をつけるなど様々な工夫がされ、その工夫は今日の『茶室』にも多く取り入られている。

❙茶道具❙

『茶道具』の改革には『[千家十職]樂家初代/長次郎(生年不詳-1739)』に「宗易形茶碗(樂茶碗)」を造らせ竹花入などを考案。

それまでの『唐物道具』から誰もが使いやすく手に入りやすい『和物道具』や『見立道具』を考案。

❙窓❙

『料理』の改革にはそれまでの数多くの品数を一度に出す『本膳料理』の形式からのちに『懐石』と呼ばれる『一汁三菜』のかたちを考案

『わび茶』を広めるために天正十三年(1585)三月には『大徳寺大茶の湯』、同年十月には『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の「関白」任命による『[第百六代天皇]正親町天皇(1517-1593)』の御所内で行われた『禁中茶会』を行っており、天正十五年(1587)十月には京都/北野の『北野天満宮』で行われた『北野大茶湯』を催している。

 余談ではあるが今日において呼称される「利休」の名については『禁中茶会』の際に『[第百六代天皇]正親町天皇(1517-1593)』より勅許された『利休居士』居士号に由来する。

​『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の「わび茶」は戦国時代という波乱の中、前述の改革以外にも『露地』『点前』『点前』『心得』などさまざまな改革をへて『茶道』を確立、今日の私たちの『茶道』の基礎を築いたのである。

❙居士号❙

身近で「居士」という言葉は、ご先祖様の戒名に付ける位号と認識されていますが本来の「居士」の意は学徳高くして仕官していない人をいい仏教では出家せず僧侶でなくとも修行を積み仏教に帰依して奥義に達し多くの人に仏法を求める菩薩業の実践者を称す。

「居士」の語源は「(家に)居(を)る士」であり、仕官せずに読書人の意である。

❙茶道の歴史❙
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