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千利休宗易

04.利休の茶の湯

​❙目次❙

めに

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❙利休の​茶の湯

「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」は鎌倉時代から室町時代を通して主流であった「書院茶湯」の発展の過程において華美な装飾を徹底的に排除。

名物と呼ばれた「唐物」を否定し、「見立道具」をはじめ国産の「樂焼」である黒樂茶碗などを重視。

「無地」や「木地」「黒」「朱」などを好みそれまでにあった無駄を徹底的に排除し絢爛豪華な趣味とは対照的に機能美を茶の湯の真髄としている。

 『[僧/茶人]南坊宗啓(生没享年不詳)』の茶道の秘書といわれる「南方録」にあるように「茶湯は台子を根本とすることなれども、心の至る所は、草の小座敷にしとくことなし」「小座敷の茶湯は、第一仏法を以って修行得道する事也」語が説かれ草庵茶湯の創始が称される。

 

「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」は独自の茶風を示しているが『表千家五代/随流斎良休宗左(1650-1691)』の残した『隋流斎延紙ノ書』「伝ハ紹鴎ニ得申、道ハ珠光ニ得申ス」と記されている通り『[僧/茶人]村田珠光(1423-1502)』の茶の道を『[豪商/茶人]武野紹鷗(1502-1555)』から受け継がれた茶の湯を確立し、『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の天下統一とともに『わび茶(草庵茶湯)』を大成させていくのであった。

 『[豪商/茶人]山上宗二(1544-1590)』の記した「山上宗二記」には「宗易ハ名人ナレバ、山ヲ谷、西ヲ東ト、茶湯ノ法ヲ破リ、自由セラレテモ面白シ」と「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」の斬新で面白い工夫を評している。

 また没後の慶長十七年(1612)、『二平寿悦(生没年不詳)』という者の奥書『僊林』には「当世の茶湯とハ、宗易と云数寄者、むかしのくどきことを除、手まへかるく、手数すくなく、かんなる所ヲ本とす。茶わんにても、こ(濃)き・うす(薄)きの替をかんようにたてつれバなり、座敷のひろ(広)き・せば(狭)きによらず左かまへなり、又道具ヲはこぶ事、ミな侘数寄の仕舞也、殊ニ茶のいき(息)ぬかすまじきため、ひしやく大にして一ひしやく立ル也」と論されている。

 かくて抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」の大成させた『わび茶(草庵茶湯)』は将軍、貴族の茶の湯である東山文化の「書院茶湯」と町衆の茶の湯の統合完成形ともいえる。

 「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」が提唱した『一期一会』『一汁一菜』の食事からも分かるように「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」の『わび茶(草庵茶湯)』には『禅』の教えからくるものが多く、数多くの『見立道具』の考案から帯刀を禁じ亭主と客が相対することで身分や貧富の違いを省いた『草庵茶室』の構築、茶庭の再構成など当時の「美」の概念を大きく変え一介の茶人の枠を越え現代でいう『美の巨匠』『美のプロデューサー』という側面もあったと考えられる。

 

❙千利休宗易❙
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