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茶道の歴史

茶道史年表

めに

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良時代​  710年 - 794年 ~
和銅三年​(710年)

平城京遷都

和銅五年​(712年)

[歴史書]古事記』の成立

天平二十年(748年)

この頃、『[高僧]大僧正/行基(668-749)/82歳』が全国各地の四十九寺に「茶樹」を植えたと伝えられる。

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養老四年​(720年)

[歴史書]日本書紀』の成立

天平宝字四年​(760年)

この頃、中国/唐代の『[文人]陸羽(733-804)/71歳』が『[茶書]茶経(760)』を著す。

また「茶」が課税の対象となる。

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延暦三年​(784年)

長岡京遷都

時代​  794年 - 1185年 ~
延暦十三年​(794年)

平安京遷都

延暦二十四年​(805年)

『[高僧『[僧]天台宗開祖/最澄(伝教大師)(767-822)/54歳』が中国/唐より「茶(実)」を持ち帰り、その後、近江/坂本の「日枝神社」に植えたという。

弘仁六年​(815年)

『第五十二代天皇/嵯峨天皇(786-842)/57歳』行幸の際に訪れた近江国/大津の「際梵釈寺」にて住職の『[梵釈寺]永忠(743-816)』より「茶」を献じられる。その後『第五十二代天皇/嵯峨天皇(786-842)/57歳』は「近江」「丹波」「播磨」などの諸国に「茶」の栽培を命じる。

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元慶三年​(879年)

宮中行事である『[宮中行事]季御読経』において僧侶に「茶」が供される。

寛平六年​(894年)

遣唐使廃止

延喜五年​(905年)

『[勅撰和歌集]古今和歌集』の成立

天暦四年​(950年)

『仁和寺御室御物実録』に茶道具が記される。 

長和五年​(1016年)

藤原道長(966-1027)、病により茶を服すという。

建久二年​(1191年)

栄西(1141-1215 臨済宗の僧)、宋より茶を持ち帰り、北九州の背振山に栽培するという。

時代​  1185年 - 1333年 ~
承元元年​(1207年)

明恵上人(1173-1232)、栄西より茶種を贈られ、京都の栂尾高山寺に植えるという。

健保二年​(1214年)

栄西、将軍源実朝の二日酔いに茶をすすめ、『喫茶養生記』(茶の薬効を説いた書物)を著す

弘化二年​(1262年)

叡尊(1201-90 真言律宗の僧)、北条実時の招きにより 鎌倉へ下向の途中、 諸宿で茶を喫する。

弘安六年​(1283年)

『沙石集』(鎌倉時代の仏教説話集)に、牛飼いが僧侶の飲む茶に興味を示した話がみえる。

元応二年​(1320年)

『仏日庵公物目録』(鎌倉円覚寺の什物を記した書物)に唐物が多く記される。

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正中元年(1324年)

南北朝内乱の前夜、後醍醐天皇の近臣が闘茶(飲茶勝負)をおこなう。

元徳二年(1330)

金沢貞顕(1278-1333 鎌倉幕府の執権)の書状に唐物と 茶の湯の流行が記される。

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建武元年​(1334年)

二条河原の落書(建武政権の世相を風刺した落書)に、連歌会や茶寄合の流行が記される。

時代​  1336年 - 1573年 ~
建武三年​(1336年)

足利尊氏(1305-58)、 『建武式目』を制定して茶寄合などの群飲逸遊を禁止。

建武三年​(1336年)

足利尊氏(1305-58)、 『建武式目』を制定して茶寄合などの群飲逸遊を禁止。

貞治五年​(1366年)

佐々木道誉(1296-1373 南北朝時代の武将)、京都の大原野で百服の闘茶(飲茶勝負)を催す

応永十年​(1403年)

京都の東寺南大門前の一服一銭の茶売り人、東寺に対して誓約書を提出。 
この頃成立した 『喫茶往来』 に「茶会」の語がはじめて登場。

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応永二十三年​(1416年)

この年に起筆された『看聞御記』(後崇光院貞成親王の日記)に、「四種十服」の闘茶の記事がしばしばみえる。

応仁元年​(1467年)

「応仁の乱(1467-1478)」

文明元年​(1469年)

古市胤栄(?-1505 奈良の土豪)、一族らと淋間茶湯(風呂をともなった茶寄合)をおこなう。

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文明八年​(1476年)

『君台観左右帳記』(能阿弥奥書、座敷飾りや唐物についての書)成立。

文明十三年​(1481年)

村田珠光(1423-1502 わび茶の祖とされる)は、一休宗純に 参禅して「圜悟の墨跡」を与えられた。

文明十四年​(1482年)

足利義政(1436-90 足利8代将軍)、東山山荘(銀閣寺)に茶室の原型とされる東求堂「同仁斎」を造営。

延徳四年​(1492年)

『[航海者]コロンブス/(1451-1506)/54歳』、アメリカ大陸発見

文亀二年​(1502年)

[茶祖]村田珠光(1423-1502)/80歳』没

大永二年​(1522年)

泉州堺今市町に千利休生まれる

大永六年(1526年)

連歌師宗長の日記に、 村田宗珠(珠光の嗣子)が京都の下京でわび茶をおこなっていたことが記される。

享禄元年​(1528年)

武野紹鴎(1502-55)、三条西実隆(1455-1537 公家、室町時代を代表する文化人)の弟子となり、 のちに藤原定家の歌論書『詠歌大概』 を伝授される。

天文二年​(1533年)

松屋久政(?-1598 奈良の塗師)、『松屋会記』 を起筆。のち久好・久重によって慶安3年(1650)まで書き継がれる。 

天文五年​(1536年)

豊臣秀吉生まれる。

天文八年(1539年)

長谷川等伯生まれる。

天文十一年​(1542年)

徳川家康生まれる。

天文十二年​(1543年)

古田織部生まれる。

ポルトガル船が種子島へ来航、「鉄砲(火縄銃)伝来」

天文十三年​(1544年)

山上宗二生まれる。
2月 利休、奈良称名寺の恵遵坊と松屋久政を茶会に招く。

天文十七年(1548年)

天王寺屋宗達(1504-66 姓は津田、堺の町衆)、『天王寺屋会記』 を起筆。
のち宗及・宗凡によって天正18年(1590)まで書き継がれる。

天文十八年(1549年)

キリスト教伝来

天文二十年​(1551年)

三好実休(1528-62 戦国武将)、しばしば堺の天王寺屋を訪れて茶の湯を楽しむ。

天文二十三年​(1554年)

今井宗久(1520-93 堺の町衆)、天正17年(1589)まで茶会記 『今井宗久茶湯日記抜書』を筆記。

弘治元年​(1555年)

千利休、武野紹鴎らを茶に招き、唐絵の牧渓自画賛、高麗茶碗などを用いる。 

『[茶人]武野紹鷗(1502-1555)/53歳』没

弘治三年​(1557年)

正親町天皇即位(~86)

永禄五年​(1562年)

『[茶匠]北向道陳(1504-1562)/59歳』

永禄六年(1563年)

細川三斎生まれる。

永禄八年​(1565年)

松永久秀(1510-77 戦国武将)、奈良の多聞山城で千利休らを茶に招き、天下一の名物と称された「九十九髪茄子(つくもなす)の茶入」を用いる。

永禄十一年​(1568年)

今井宗久、織田信長(1534-82)に「松島の茶壺」「紹鴎茄子の茶入」を献上。

元亀二年​(1571年)

比叡山焼き討ち

土桃山時代​  1573年 - 1603 ~
天正七年​(1579年)

足利尊氏(1305-58)、 『建武式目』を制定して茶寄合などの群飲逸遊を禁止。

天正十年​(1582年)

千利休が京都/山崎に茶室『待庵』(国宝)を建てる。

「本能寺の変」

『[天下人]織田信長(1534-1582)/49歳』没

天正十三年​(1585年)

豊臣秀吉(1536-98)、京都御所において正親町天皇に茶を献じる(禁裏茶会)。
千利休も茶堂として出仕し、正親町天皇から「利休居士号」を与えられ天下一の宗匠となる。

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天正十四年​(1586年)

豊臣秀吉、禁中に黄金の茶室をはこび茶会をおこなう。 
奈良の茶会で「宗易形ノ茶ワン」(利休の意匠により長次郎が焼いた楽茶碗)が用いられる。

天正十五年​(1587年)

◆10月1日◆

京都「北野寺社(北野天満宮)」にて「北野大茶湯(10/1)」挙行

天正十六年​(1588年)

利休の高弟山上宗二、『山上宗二記』を著す。

天正十七年​(1589年)

千利休が修復を寄進した大徳寺山門「金毛閣」が完成し、利休の木像がかかげられる。

『[千家十職]樂家初代/長次郎(生年不詳-1589)/享年不詳』

天正十九年​(1591年)

閏1月 この頃より大徳寺山門の利休木像が問題となり、利休は窮地に陥る。
閏1月24日 『利休百会記』の茶会終わる。客は徳川家康1人。
2月13日 秀吉より利休へ堺への蟄居が命じられる。
2月25日 利休、京都に呼び戻される。この時、辞世と狂歌をしたためる。
2月28日 利休、聚楽屋敷で切腹。千利休自害。(2月28日)
千家は一家離散となり、 少庵は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられる。

文禄三年​(1594年)

千少庵、徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで 豊臣秀吉に許されて京に戻り、千家を再興(少庵召出状)

文禄三年​(1594年)

千少庵、徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで 豊臣秀吉に許されて京に戻り、千家を再興(少庵召出状)

慶長三年​(1598年)

『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)/61歳』没

慶長五年​(1600年)

関ヶ原の戦い

慶長六年​(1601年)

千宗旦、大徳寺の春屋宗園より「元叔」の号を授けられる。
宗旦は東福門院(1607-78 徳川2代将軍秀忠の娘で後水尾天皇の中宮)、近衛信尋(1599-1649 後水尾天皇の弟で近衛家18代当主)らの禁裏・公家とも交流があった。

時代​  1603年 - 1867年 ~
慶長十五年​(1610年)

古田織部(1543-1615 千利休の弟子で徳川将軍家の茶道指南)、茶の宗匠として名をあげる。
また、織部は茶会で 「ヘウケ(道化)モノ」の茶碗を好んで用いた。

慶長十五年​(1610年)

古田織部(1543-1615 千利休の弟子で徳川将軍家の茶道指南)、茶の宗匠として名をあげる。
また、織部は茶会で 「ヘウケ(道化)モノ」の茶碗を好んで用いた。

慶長十五年​(1610年)

古田織部(1543-1615 千利休の弟子で徳川将軍家の茶道指南)、茶の宗匠として名をあげる。
また、織部は茶会で 「ヘウケ(道化)モノ」の茶碗を好んで用いた。

慶長十九年​(1614年)

千少庵没し、千宗旦が千家の家督を相続。
少庵は徳川2代将軍秀忠の知遇を得た。千家には香箱を献上したことに対する秀忠の礼状(香箱の文)も伝わる。 
本阿弥光悦(1558-1637 蒔絵、陶芸、書などにすぐれた上層町衆)、徳川家康(1542-1616)より 京都鷹峰の地を拝領。

大坂冬の陣

慶長二十年​(1615年)

大坂夏の陣

元和二年​(1616年)

『[将軍/五大老]徳川幕府初代/徳川家康(1543-1616)/75歳』没

元和四年​(1618年)

織田有楽(1547-1621 織田信長の弟で有楽流の流祖)、京都の建仁寺正伝院に「如庵」(国宝)を建てる。

寛永三年​(1626年)

『草人木』 (最初の板行茶書)出版される。

寛永十三年​(1636年)

小堀遠州(1579-1647 古田織部の弟子で徳川将軍家の茶道指南)、徳川家光の数寄屋御成り (茶の湯を目的とした御成り ) を迎える。

寛永十六年​(1639年)

「南蛮(ポルトガル)船」の来航禁止

鎖国(1639年-1854年)

寛永十九年​(1642年)

江岑宗左、紀州徳川家に茶堂として出仕。
細川三斎(1563-1645 千利休の弟子で三斎流の流祖)、徳川頼宣(1602-71)の茶会に 招かれ、江岑宗左が茶堂として出座。 

正保三年​(1646年)

宗旦、隠居。江岑宗左、宗旦より千家の家督を相続して表千家の基礎を固める。

慶安元年​(1648年)

片桐石州(1605-73 石州流の流祖で徳川将軍家の茶道指南)、江戸で江岑宗左を茶会に招く。

承応元年​(1652年)

金森宗和(1584-1656 宗和流の流祖)の書状に、野々村仁清の御室焼を仲介した記述がみえる。

承応二年​(1653年)

宗旦、又隠居(再び隠居)して、もとの隠居の二畳を「今日庵」と命名し、又隠居の家に 四畳半を建てて 「又隠」  と命名。仙叟宗室(1622-97 千宗旦の四男)は、「今日庵」を継承して裏千家の基礎を固めた。

寛文三年(1663年)

『江岑夏書』(江岑宗左の聞書)が成る。

寛文十二年​(1672年)

随流斎、大徳寺の一渓宗什より 「随流斎」 の号を与えられる。随流斎は晩年に 『随流斎延紙ノ書』 (茶の湯の覚書)を著した。

延宝四年​(1676年)

『武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)/83歳』没

晩年千家にもどり、武者小路千家(官休庵)の基礎を固めた人物である。

元禄三年​(1690年)

「利休居士百回法要」挙行

福岡藩士の立花実山、『南方録』 (利休の秘伝書)を編集。
山田宗(1627-1708 宗旦四天王の一人で 宗流の流祖)、『茶道便蒙抄』 を刊行。

元禄十三年(1700年)

『茶話指月集』 (千利休の逸話集)刊行される。

享保元年(1716年)

『[画家/芸術家]琳派/尾形光琳(1658-1716)/59歳』

享保八年​(1723年)

覚々斎、徳川8代将軍吉宗より「桑原茶碗」(唐津茶碗)を拝領。

享保十一年​(1726年)

近衛家熙(1667-1736 近衛家21代当主)大徳寺へ御成り 、覚々斎、如心斎によって薄茶を饗される。

享保十九年​(1734年)

如心斎、茶杓三十本を削って北野天満宮に寄進(北野三十本茶杓)。
売茶翁高遊外(1675-1763 煎茶道の始祖とされる)、京都に通仙亭を構え売茶活動をはじめる。

元文三年(1738年)

永谷宗円(1681-1778 宇治の茶師)、蒸し製の煎茶(青製煎茶)を考案。

元文四年(1739年)

「利休居士百五十回忌法要」挙行

元文五年​(1740年)

如心斎、利休150年忌に際し、大徳寺の聚光院に茶室「閑隠の席」を寄進。

寛保元年​(1741年)

如心斎らによって、七事式(茶の湯の新しい稽古法)が制定される。

寛保三年​(1743年)

『[陶工/芸術家]琳派/尾形乾山(1663-1743)/81歳』没

延享二年​(1745年)

川上不白(1719-1807 江戸千家の流祖)、如心斎の許しにより、江戸で表千家流の茶の湯の普及につとめる。

宝暦元年​(1751年)

如心斎、子息の啐啄斎に遺言の文「云置」を残す。

宝暦元年​(1751年)

如心斎、子息の啐啄斎に遺言の文「云置」を残す。

明和七年(1770年)

松平不昧(1751-1818 出雲松江藩主で 大名茶人)、『贅言』 を著して遊芸化した茶の湯を批判。

天明七年​(1787年)

酒井宗雅(1755-90 姫路藩主で 大名茶人)、松平不昧より茶の湯の皆伝を授けられる。

天明七年​(1787年)

酒井宗雅(1755-90 姫路藩主で 大名茶人)、松平不昧より茶の湯の皆伝を授けられる。

寛政元年​(1789年)

「利休居士二百回忌追法要」挙行

啐啄斎天明の大火で焼失した千家を復興し、利休200年忌の茶事を催す。

寛政九年​(1797年)

松平不昧の編纂による 『古今名物類聚』 が刊行される。

寛政九年​(1797年)

松平不昧の編纂による 『古今名物類聚』 が刊行される。

文化四年​(1807年)

「元伯宗旦百五十回忌法要」挙行

文化六年​(1809年)

宗達は裏千家 8代の又玄斎宗室に茶の湯を学び、『茶旨略』 『喫茶指掌篇』 『茶則』 を著した。

文政五年​(1822年)

了々斎、紀州徳川家10代治宝(1771-1852)の御成りを迎え、紀州徳川家より武家門(現在の表門)を拝領。

天保元年​(1830年)

「天保の改革(1830-1844)」

天保六年(1835年)

玉露の製法が発明される。

天保七年​(1836年)

吸江斎、徳川治宝より 真台子の点前の皆伝を授けられ、利休の茶の湯的伝を伝える。
(吸江斎は幼少で家元を継いだため、皆伝は一時、了々斎より治宝に預けられていた。)

弘化元年​(1839年)

「利休居士二百五十回忌追善茶事」(裏千家) 挙行

吸江斎、祖堂(利休堂)を改築し、利休250年忌をつとめる

弘化二年​(1840年)

「利休居士二百五十回忌法要」(三千家合同) 挙行

「アヘン戦争(1839-1840)」開戦

弘化四年​(1847年)

稲垣休叟(1770-1819 啐啄斎の門人)の 『茶道筌蹄』 が刊行される。

嘉永五年​(1853年)

「黒船来航(ペリー来航)」

嘉永七年​(1855年)

「第一回パリ万国博覧会」開催

安政四年​(1857年)

井伊直弼(1815-60 彦根藩主で徳川幕府の大老)、『茶湯一会集』 を著す。

時代​  1868年 - 1912年 ~
明治五年​(1872年)

玄々斎宗室(1810-77 裏千家11代)によって立礼(椅子式の点前)が考案される。

明治八年​(1875年)

跡見花蹊(1840-1926 跡見学園の創立者)、女子教育に茶道をとり いれる。

明治十三年​(1880年)

碌々斎、北野天満宮において献茶をおこなう(表千家の献茶のはじめ)。
また、この頃より各地に出向き、茶道の普及につとめる。

明治二十年​(1887年)

碌々斎、京都御所において明治天皇に茶を献じる。

明治二十二年​(1889年)

「大日本帝国憲法(2/11)」公布

明治二十三年​(1890年)

碌々斎、利休300年忌をつとめる。

明治二十七年​(1894年)

「日清戦争(1894-1895)」開戦

明治二十九年​(1896年)

益田鈍翁(1848-1938 三井物産の創立者で近代数寄者)により『[茶会]大師会』がはじめる。

明治三十一年​(1898年)

田中仙樵(1875-1960)、大日本茶道学会を創立。

京都「豊国神社」にて『豊太閤三百年祭大茶会』挙行

明治三十四年​(1901年)

「第五回パリ万国博覧会」に「日本茶」と「台湾茶」が出展される

明治三十七年​(1904年)

「日露戦争(1904-1905)」開戦

明治三十八年​(1905年)

不審庵再度焼失。

ポルトガル人『[総領事]モラエス(1854-1929)』が茶題材にした「O culto do chá」を出版。

明治三十九年​(1906年)

『[文人]岡倉天心(1863-1913)』がアメリカで『THE BOOK OF TEA(邦題:『茶の本』)』を明治三十九年(1906)に出版
惺斎、前年に火災で焼失した家元の再建をはかる。また東京・大阪に出張所を設けて茶道の発展につとめ、各地の工芸や国焼の育成にも尽力した。

明治四十年​(1907年)

「元伯宗旦二百回忌法要」挙行

時代​  1912年 - 1926年 ~
大正四年​(1915年)

『[茶会]光悦会』発足

大正十年​(1921年)

高橋箒庵(1861-1937 三井系の財界人で近代数奇者)の編纂による『大正名器鑑』の刊行はじまる。

大正十二年​(1923年)

関東大震災

時代  1926年 - 1989年 ~
昭和六年​(1931年)

「満州事変(1931-1933)」

昭和七年​(1932年)

「五・一五事件(5/15)」

昭和十一年​(1936年)

[10月]

天正十五年(1587)、京都「北野寺社(北野天満宮)」にて開催された「北野大茶湯(1587)」の三百五十年を記念し同所にて「豊公北野大茶湯三百五十年記念大茶会(昭和北野大茶湯)」が開催される。

二・二六事件

昭和十二年​(1937年)

「日中戦争(1937-1945)」開戦

昭和十四年​(1939年)

「第二次世界大戦(1939-1945)」開戦

昭和十五年​(1940年)

「利休居士三百五十回忌法要」挙行

昭和十六年​(1941年)

アメリカ/ハワイ「真珠湾攻撃」
「太平洋戦争(大東亜戦争)(1941-1945)」開戦

昭和十七年​(1942年)

「表千家同門会」を発足。

昭和二十年​(1945年)

「ポツダム宣言」受託
「太平洋戦争(大東亜戦争)」終戦

昭和三十年​(1955年)

「表千家同門会」海外初の「ハワイ支部」を設立。

昭和三十九年​(1964年)

東京オリンピック

昭和四十年(1965年)

即中斎、『表千家』 (角川書店)を刊行。
また、同46年(1971)には古稀記念として 『元伯宗旦文書』(茶と美舎)を刊行し、出版物による茶道の普及にもつとめた。

昭和四十六年​(1971年)

即中斎は古稀記念として 『元伯宗旦文書』(茶と美舎)を刊行し、出版物による茶道の普及にもつとめた。

時代​  1989年 - 2019年 ~
平成二年(1990年)

「利休居士四百回忌法要」挙行

京都国立博物館にて『特別展覧会四百回忌/千利休展』開催

時代​  2020年 - 年 ~
令和二年(2020年)

「東京オリンピック」開催

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