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千利休宗易

02.利休の生涯

めに

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❙利休の生涯

大阪堺の『商家(屋号「魚屋」)』であり『納屋衆(倉庫業)』である『[父]田中与兵衛(一忠了専)(生年不詳-1540)』と『[母]月岑妙珎(生没享年不詳)』の子として田中家に生まれる。幼名は『田中与四郎』

 天文二年(1533)、鎮守の大念仏寺築地修理のための「大念仏寺念仏頭人差帳」の今市町の項に『与次郎せん』とあり、すでに今市町千家の当主となったのがわかり、納屋衆であった事も裏付けられる。

 十七歳にて『[茶匠]北向道陳(1504-1562)』の門を叩き茶の道に入り、次に当時の茶の湯の第一人者である『[豪商/茶人]武野紹鷗(1502-1555)』に師事。

『[豪商/茶人]武野紹鷗(1502-1555)』と共に茶の湯の改革に取り組むと共に『大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)』『大徳寺百七世/笑嶺宗訢(1490-1568)』に参じ禅旨を得る。

 当時堺は「町人の都」として全盛を極め町ぐるみで茶湯を楽しんでおり、堺衆茶人では『[茶人]津田宗達(1504-1566)』と『[茶人/天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591)』の父子をはじめ『[豪商/茶人]武野紹鷗(1502-1555)』の娘婿である『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』そして『宗易』の名が称されることとなる。

 元亀四年(1573)、『[大名]織田信長(1534-1582)』は再上洛の際に堺の掌握をはかったため堺は動揺、『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』はいち早く信長に帰属したが堺衆の反抗が示された。

(※先に『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』を召したのには『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』所持の『紹鴎茄子』の取得とその茶湯の権威を誇ろうとしたものであると考えられる。)

 同年『[大名]織田信長(1534-1582)』は『室町幕府十五代将軍/足利義昭(1537-1597)』を追放、室町幕府を倒して織田政権が樹立。

このおり『[茶人/天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591)』に前後して『宗易』を茶匠として召す。

『[大名]織田信長(1534-1582)』の茶の湯には京衆の『不住庵梅雪(生没享年不詳)』らが参仕していたが『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』・『[茶人/天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591)』・『宗易』『三宗匠』として優遇。

その後『[大名]織田信長(1534-1582)』の『茶頭』となり『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』、『[茶人/天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591)』と共に茶湯の『天下三宗匠』と称される。

 天正八年(1580)紫野大徳寺門前に屋敷を構え『[後妻]千宗恩(生年不詳-1600)』の連れ子『[養子]千少庵宗淳(1546-1614)』を上洛させ四畳半の座敷を設け『不審庵』の額を掲げたといわれる。

 天正十年(1582)の「本能寺の変」による『[大名]織田信長(1534-1582)』没後は『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の『茶頭』および側近として仕える。

また『[大名]織田信長(1534-1582)』の『百日忌法要』を『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)』が修するがこれに『宗易』は『[豪商/茶人]山上宗二(1544-1590)』・『[商人]博多屋宗寿(1570-1659)』を誘って施主となっている。

 『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の側近として聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関わり、三千石の禄を賜るなど『茶人』としての地位と名声を手に入れる事となる。

天正十三年(1585)『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の関白拝賀の『禁中茶会』に参仕『百六代天皇/正親町天皇(1517-1593)』から『利休居士』号を賜り『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の天下統一とともに利休の茶の湯が大成する事となる。

 当時のその重用ぶりは、弟『[大名]豊臣秀長(1540-1591)』を差し置き、大阪城を訪れた『[大名]大友宗麟(1530-1587)』は『[大名]豊臣秀長(1540-1591)』本人から「公儀の話は私(秀長)に、内輪の話は利休にするように」と語らせたほどである。

 天正十五年(1587)に催された『北野大茶湯』においては主管をつとめる

しかし徐々に『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』との関係は悪化し後ろ盾となっていた『[大名]豊臣秀長(1540-1591)』の死後、天正十九年(1591)『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の逆鱗に触れ、堺に『蟄居』を命じられる。

 その後、『[加賀藩主]前田家初代/前田利家(1539-1599)』をはじめ『利休七哲』の『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544-1615)』『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563-1646)』やその他大名である弟子たちや多くの支持者が奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」は聚楽屋敷内で『切腹』を命じられ死去。

(※『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』は斬首の際、多くの弟子たちが利休奪還を図る恐れから命を出し、『[五大老/大名]米沢上杉家二代/上杉影勝(1556-1623)』の軍勢に屋敷を取り囲んだという。)

 その後「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」の首は京都/一条戻橋で『梟首』され首は賜死の一因となった大徳寺山門の『利休像』に踏ませる形でさらされたという。

❙利​居士

一般に知られている『利休』の号は利休居士』という居士号であり、天正十三年(1585)の「禁中茶会」の参仕にあたり町人の身分では参仕できないため『百六代天皇/正親町天皇(1517-1593)』から『勅謚』されたものである。

慶長四年(1599)『千少庵宗淳(1546-1614)』が『大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)』に『利休』号の解議を求めた際に「先皇正親町院、忝くも利休居士の号を賜う」と言い、同じく慶長十年(1605)

『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546-1607)』は『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』に『利休』号の解議を求めた際『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』は『利休』号は「宗易禅人の雅称」であり、先師の『大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)』が『参得宗門老古錐/平生受用截流機/全無伎倆白頭日/飽対青山呼枕児』(※宗門に参得せる老古錐/平生受用す、截流せつるの機/全く伎倆無し、白頭の日/全く伎倆無し、白頭の日/青山に対するに飽あいて枕児を呼ぶ)という「悟り終って未だ悟らざるに同じ」という境涯を説いた『偈頌』を賦して授けたという。

※他にも『利休』号の解議には禅語「名利共に休す(名誉も利益も求めない)」からといわれる説や『茶経』の作者とされる『[文筆家]陸羽(733-804)』に因んだ説とももあるが詳細は不明。

これによると『利休』号は『大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)』から与えられたことになり、『大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)』は『禁中茶会』の十七年前の永禄十一年(1568)に没していることから、早くに『宗易』の名と同時に『利休』の号を授けたこととなり若年時の幼名『与四郎』と称した天文四年(1535)から天文十三年(1544)以前に『宗易』と号したと考えられ、その後の禁中茶会の参志の際に『利休』を居士号としたと考えられる。

 (※法名『宗易』の初見は天文十三年(1544)二月の『千宗易会』と『松屋会記』に記されたものがあり『松屋会記』は後世の編集にかかり、しかも転写本が現存するのみなので確実とはいえない。またこの『宗易』を授与したのは『大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)』および『大徳寺百七世/笑嶺宗訢(1490-1568)』の両者があげられるが詳細は不詳。)

 そのように考えると『禁中茶会』二年前の天正十一年(1583) 『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)』によって描かれた「肖像画(正木美術館蔵)」『利休宗易禅人』の名があることが理解できる。

 しかし当時「【抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」は『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)』との交流が深いので『大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)』の説の不合理も考えられる。

 また『利休書状』では天正十三年(1585)以前に『利休』という署名のないこともあり天正十三年(1585)の居士号勅諡にあたって『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)』が急遽撰び与えたものとも考えられ未だに詳細は不明である。

 いずれにせよ『利休』の名は娩年の頃の名であり生涯のほとんどは『宗易』と名乗っている。

❙利休の​罪

利休死罪の罪状には『「大徳寺三門(金毛閣)」に自らの木像を安置した』一件と『茶器売買にかかわる不正』の一件の二つの罪が歴史史料によりわかる。

❙​『大徳寺三門(金毛閣)』に自らの木像を安置した一件❙

主君『[大名]伊達家十七代/伊達政宗(1567-1636)』に随従して京都に滞在していた家臣『[伊達家家臣]鈴木新兵衛(生没享年不詳)』は『京都/一条戻橋』に『梟首』された高札を目にし、その旨を国元の家老『[伊達家家老]石母田景頼(1559-625)』に充てた書状にはこの事に関し次のように記されている。

「茶の湯天下一宗易(利休)、無道の刷い年月連続のうえ、御追放。行方なく候。しかるところに、右の宗易、その身の形を木像にて作り立て、紫野大徳寺に納められ候を、殿下様(秀吉)より召し上され、聚楽の大門もどり橋と申し候ところに、張付けにかけさせられ候。木像の八付、誠に誠に前代未聞の由し、京中において申すことに候。見物の貴賤、際限なく候。右八付の脇に色々の科ども遊ばされ、御札を相立てられ候。おもしろき御文言、あげて計うべからず候。」

(訳:直接の罪状は自身の木像。その木像は秀吉の命により磔にされた。その他の罪状の逐一が、その脇の高札に面白おかしく列挙されていた)

 

また『[公家]勧修寺晴豊(1544-1603)』の日記『晴豊公記』には

「大徳寺山門に利休木像つくり、せきだという金剛はかせ、杖つかせ、造り置き候こと、曲事なり。その子細、茶の湯道具新物ども、くわんたいにとりかわし申したるとのことなり」

(訳:木像に雪駄をはかせ、そのうえ杖までつかせるとは、いかにも俗人をあしらったもので、とても聖なる大徳寺の山門に安置するにはふさわしくない。なにより大徳寺の山門といえば、関白秀吉をはじめ、天皇、公家・諸大名など、歴々の衆が訪れるところであるから、まさしく適正性を欠いた行為と見ざるをえない。)

とある。

❙茶器売買にかかわる不正の件❙

茶道具を高額にて売買した『茶器売買にかかわる不正』の一件についても前述の『「大徳寺三門(金毛閣)」に自らの木像を安置した』同様に歴史史料が残っている。

 

前述の『[伊達家家臣]鈴木新兵衛(生没享年不詳)』の書状には

「スキ者の宗益 今暁切腹り了ンヌト。近年新儀ノ道具ドモ用意シテ 高値二売ル。マイスの頂上ナリトテ 以テノ外。関白殿御立腹」

とある。

 またこちらも前述の『[公家]勧修寺晴豊(1544-1603)』の日記『晴豊公記』には

「その仔細は茶湯道具の新物などをも緩怠に取換はし」

とある。

その他に『興福寺多聞院住職/多聞院英俊(1518-1596)』の日記『多聞院日記』の天正十九年(1591)二月二十八日の条には

「数寄者の宗易、今暁腹切りおわんぬと。近年新儀の道具ども用意して高値にて売る。売僧の頂上なりとて、以ての外、関白殿立腹」

とある。

このように上記の史料からもわかるように「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」死罪の罪状について『「大徳寺三門(金毛閣)」に自らの木像を安置した』一件と『茶器売買にかかわる不正』の一件の二つの罪がはっきりと示されることがわかる。

 しかしその罪に対する罪状の軽さやその罪状の最大の意因など未だにはっきりとしない部分もあり上記の史料にてはっきりとされているにもかかわらず下記のようにその他の罪があるのではないかとミステリー化しているのも事実である。 

  • 『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』との茶の湯に対する考えの相違

  • 『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の嫉妬

  • 『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』から『[四女]吟(生没享年不詳)』を妾に出すことを拒否

  • 権威の増大する「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」への恐怖心

  • 朝鮮出兵への反対、批判

  • 大政所派(豊臣秀長)と淀君派(石田三成)の政権争い

 共通としては豊臣秀長の死去を契機とし石田三成の策諜が顧みられていることがあるが、その直接の意因については現代においても答えのない課題となり未だに色々な新しい説も上がってきている。

また『利休の木像』『裏千家/今日庵』に現存する。

❙利休の生涯

「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」の死後、利休聚楽屋敷は取り壊されましたが、利休七哲の一人でもある『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563-1646)』が健創した『大徳寺/高桐院』に利休聚楽屋敷の一部とされる書院が残っている。

 茶の湯の後継者には『[先妻]宝心妙樹(生年不詳-1577)』の嫡男『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546-1607)』をはじめ『[後妻]千宗恩(生年不詳-1600)』の連れ子『[養子]千少庵宗淳(1546-1614)』、『[次女]不明(生没享年不詳)』の夫『[茶人]万代屋宗安(生年不詳-1594)』『[弟]千宗把(生没享年不詳)』の子『[甥]千紹二(生没享年不詳)』が挙げられるが『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546-1607)』と『[養子]千少庵宗淳(1546-1614)』は「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」の死罪と共に蟄居し、一時『千家』は取り潰し状態となる。

またその間は『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544-1615)』が『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の「茶頭」となり『[大名/利休十哲]有楽流開祖/織田(有楽斎)長益(1548-1622)』や『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563-1646)』ら多くがわび茶の道系を継ぐこととなる。

「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」自害後の文禄四年(1595)頃『[征夷大将軍]徳川家康(1543-1616)』『[加賀藩主]前田家初代/前田利家(1539-1599)』の取りなしにより『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546-1607)』と『[養子]千少庵宗淳(1546-1614)』は赦免されることとなる。

その後『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546-1607)』が本家の『堺千家』の家督を継ぐが早くに断絶。

このため『[養子]千少庵宗淳(1546-1614)』が『京千家』の家督を継承し現在の『三千家』がはじまることになる。

 現在の『三千家』は『[養子]千少庵宗淳(1546-1614)』の系譜であり、大徳寺の喝食であったその息子『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』が還俗して、現在の『表千家』『裏三千家』の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。

また『[茶人]久須美疎安(1636-1728)』の『茶話指月集』には、この時『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』は、『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』から利休遺品の数寄道具長櫃三棹を賜ったという。

 その後『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の『[三男(後妻)]表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』が『表千家/不審庵』、『[四男(後妻)]裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697)』が『裏千家/今日庵』、『[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)』が『武者小路千家/官休庵』を創建し現在に至る。

❙利休の​資料

「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」を知る上で貴重な文献史料としては

  • 『[豪商/茶人]山上宗二(1544-1590)』の『山上宗二記』

  • 『[僧/茶人]南坊宗啓(生没享年不詳)』の『南方録』

  • 『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544-1615)』の『織部百ヶ条』

  • 『[茶人]松屋久重(1567-1652)』の『松屋会記』『茶道四祖伝書』

  • 『[茶人]久須美疎安(1636-1728)』の『茶話指月集』

などが上げられ、『不立文字』を掲げる『千家』においては

  • 『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』の『江岑夏書』『千家系譜』『千利休由緒書』

  • 『表千家五代/随流斎良休宗左(1650-1691)』の『隋流斎延紙ノ書』

などが上げられる。

 

特に一級の史料としては『山上宗二記』が上げられこの書の中では「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」は六十歳までは先人の『[僧/茶人]村田珠光(1423-1502)』『[豪商/茶人]武野紹鷗(1502-1555)』の茶を踏襲し、天正十年(1582)の「本能寺の変」後の六十一歳の頃から自身の茶をはじめたと説かれている。

  

また上記の史料以外にも道具などに添えた文や歌入りの文があり

  • 『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544-1615)』に宛てた『武蔵鐙の文』(東京国立博物館蔵)

  • 『[武将/利休門三人衆/利休七哲]芝山(監物)宗綱(生没享年不詳)』に宛てた『蟄居見舞いの返書』(裏千家今日庵蔵)

  • 『[塗師]喜三(生没享年不詳)』に宛てた『手桶の文』(表千家不審庵蔵)

  • 『伊勢待従』に宛てた『大仏普請の文』(大阪城天守閣蔵)

  • 『平野勘兵衛(生没享年不詳)』に宛てた『大徳寺門前の文』(大阪城天守閣蔵)

  • 『大徳寺/聚光院)』に宛てた『永代供養の文』(大徳寺聚光院蔵)

などがある。 

「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」自筆の『真蹟』『書状(「利休の文」「利休消息」)』は『[大名]織田信長(1534-1582)』参仕以前の物はほぼ皆無であり参仕時代に至っても僅少でそのほとんどが『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の参仕時代の物である。

また天正十三年(1585)以前は『抛筌斎宗易』以後は『利休宗易』と署名されている。

なお『祐筆』には『鳴海宗温(生没享年不詳)』が知られるが『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546-1607)』『[養子]千少庵宗淳(1546-1614)』の代筆も考えられる。

❙千利休宗易❙
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