
千家十職
04.奥村吉兵衛 [表具師]
❙はじめに ~ 奥村吉兵衛 ~
「千家十職」とは、千家好みの茶道具の制作を業とする十家の職家であり、日本美術(伝統工芸)の中でも特に重要な職人技を受け継いできた家々です。その技法は代々継承され、茶の湯の美と職人の美が融合した作品を生み出しています。
その千家十職の一つである奥村家は、三千家御用達の「表具師」として「軸装」「風炉先」「釜敷」をはじめ代々家元の「御好物」などの制作を業とする職家です。
奥村家の表具は、茶室のしつらえを整えるために欠かせないものであり、千家の美意識に基づいた意匠と技法によって制作されています。表具は、掛軸の装飾だけでなく、書や絵の保存・保護の役割も担い、茶会の趣を演出する重要な要素の一つです。
奥村家は、茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの表具を代々にわたり制作してきました。その作品は、時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。
本項では奥村家の歴史とそのあゆみについてご紹介します。
それでは「表具師/奥村吉兵衛」について詳しく見ていきましょう。
❙奥村吉兵衛 ~ あゆみ ~
奥村家の遠祖は近江国谷の庄の『江州/佐々木家』の血を引く武士であったとされ、名は『奥村三郎定道(生没年不詳)』と伝えられています。
『奥村三郎定道(生没年不詳)』は小谷城の浅井家に仕えていたとされるが、その後の「姉川の合戦」により天正元年(1573年)8月に浅井家が滅亡したため浪人となる。
『奥村三郎定道(生没享年不詳)』の息子『奥村源六郎定次(生没享年不詳)』は長男の『奥村源子郎(生没享年不詳)』を『加賀/前田家』に出仕させる。『奥村源子郎』は『摂津守定光』と名乗り、「関ヶ原の合戦」で名を上げ加賀藩士となりました。一方、次男の『吉右衛門清定』は武士を捨て、京都へ上り「小川通上立売上ル」に住み、母方の家職を継いで表具師を生業としました。
この『吉右衛門清定』が奥村家の初代となり、奥村家では『吉右衛門清定』が承応三年(1654年)三十七歳の時に表具屋を開業したこの年が奥村家の創業の年とされています。また現在の地「釜座/夷川上ル亀屋町」の住まいは明治時代になってからとされる。
『奥村家二代/奥村吉兵衛(休意)』は『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』の取りなしにより紀州徳川家の御用達となり、奥村家の基礎を築くが、その後数代に渡り、男子が夭折。跡取りには恵まれず代々婿養子を郷里の北近江より迎える事となる。
『奥村家六代/奥村吉兵衛(休栄)』は奥村家の功績をまとめるために調査を重ね、家系図はもちろん、歴代の表具作成の記録などを文書化。
『奥村家八代/奥村吉兵衛(蒿庵)』は歴代の中でも最も名手といわれる一方、国学、儒学に通じ、尊皇攘夷派の学者や志士と深く交わりを持った人物とされる。しかし明治維新後の文明開化により茶道が衰退、他の職家と共に奥村家は困難な時代を迎えることとなる。
その後『奥村家九代/奥村吉兵衛』は、この困難な時代に名跡を継ぎ、奥村家の建て直しに成功、今日に至る。