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千家十職

05.黒田正玄 [竹細工/柄杓師]

❙はじめに ~ 黒田正玄 ~

「千家十職」とは、千家好みの茶道具の制作を業とする十家の職家であり、日本美術(伝統工芸)の中でも特に重要な職人技を受け継いできた家々です。その技法は代々継承され、茶の湯の美と職人の美が融合した作品を生み出しています。

 

その千家十職の一つである黒田家は、三千家御用達の「竹細工・柄杓師」として「柄杓」「茶杓」「花入」などをはじめ代々家元の「御好物」などの制作を業とする職家です。​

黒田家は、千家の美意識と茶の湯の機能美を兼ね備え、シンプルながらも洗練された造形が特徴です。竹の質感や節の使い方に細心の注意を払い、一つひとつの道具に風格と趣を持たせています。黒田家は、茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの竹細工を代々にわたり制作してきました。その作品は、時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。

本項では黒田家の歴史とそのあゆみについてご紹介します。

​​​それでは「竹細工・柄杓師/黒田正玄」について詳しく見ていきましょう。

❙黒田正玄 ~ あゆみ ~

黒田家は「茶杓」「柄杓」をはじめ「台子」「香合」「花入」など竹を使う茶道具を製作する職家です。千家十職の一つとして、代々その技術を継承し、茶の湯の美意識に沿った作品を選んできました。

「わび茶」を完成させた『武野紹鷗(1502年-1555年)』は自ら竹の茶杓を削り、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』は自ら「尺八」「園城寺(一重切)」「よなが(二重切)」の竹花入をつくり、「泪」「ゆがみ」などの茶杓を削ったことで知られています。

名人の作った竹の茶杓は金属や象牙の杓のものをしのぐ価値を持つに至り、その後の茶人たちは『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』にならい、自ら「竹を切り」、「茶杓を削り」、竹の道具を作る文化が根付いていました。

竹と茶の湯の結びつきは広く「竹花入」「籠花入」「茶杓」「籠炭斗」「竹蓋置」「香合」「水指」「菓子器」など、多岐にわたる茶道具が制作されています。

 「黒田家初代/黒田正玄」は、元は武士であり『丹羽長重(1571年-1637年)』に仕えていました。しかし、関ヶ原の戦いにおいて『丹羽長重』が西軍についたことで改易となり、「黒田家初代/黒田正玄」は浪人となる。これを機に剃髪し、大津に移り住み、竹細工職人となりました。​

その後、評判の竹細工師となった「黒田家初代/黒田正玄」は『小堀遠州(1579年-1647年)』からの注文を受け、茶道界・江戸幕府とのつながりを構築。

また​千家との関係がはじまったのは「黒田家三代/黒田正玄」の時代であり『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678年-1730年)』の御用を勤めた頃かと伝えられている。

以降、黒田家は、歴代三千家をはじめ将軍家の御用達柄杓師となる。

「黒田家八代/黒田正玄」までは将軍家御用柄杓師として努める。

しかし次代の「黒田家九代/黒田正玄」が早世。急遽婿養子となった「黒田家十代/黒田正玄」だが、家督相続が明治維新と重なり、庇護者である幕府が崩壊、茶道も衰退する中、家業の保持に苦心することとなる。

​その後を継いだ「黒田家十一代/黒田正玄」も早世。「黒田家十二代/黒田正玄」は周囲の支援を得ながら、戦中・戦後の困難な時期に家業を支え続けました。

​黒田家は竹細工の技術を代々受け継ぎ、茶道具の制作において重要な役割を担い続けています。

KURODA SHOUGEN

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