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千家十職

02.永楽善五郎 [土風炉/焼物師]

❙はじめに ~ 永楽善五郎 ~

「千家十職」とは、千家好みの茶道具の制作を業とする十家の職家であり、日本美術(伝統工芸)の中でも特に重要な職人技を受け継いできた家々です。その技法は代々継承され、茶の湯の美と職人の美が融合した作品を生み出しています。

 

その千家十職の一つである永楽家は、三千家御用達の「土風炉/焼物師」として「土風炉」「茶碗」「水指」をはじめ代々家元の「御好物」などの制作を業とする職家。​

永楽家の焼物は、交趾焼(こうちやき)や色絵陶器など、千家の美意識に基づいた多彩な技法を駆使し、茶道具としての機能性と芸術性を兼ね備えています。

永楽家は、茶の湯の精神とともに発展し、千家好みの焼物を代々にわたり制作してきました。その作品は時代の変遷とともに洗練されながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。

本項では永楽家の歴史とそのあゆみについてご紹介します。

​​​それでは「土風炉・焼物師/永楽善五郎」について詳しく見ていきましょう。

❙永楽善五郎 ~ あゆみ ~

『永楽家』が今日の『永楽家』を性としたのは明治時代であり、それ以前は『西村』の性を名乗っていた。

 

​❚ 備 考 ❚

今日の『千家十職』の中には同じく茶碗を作る茶碗師『樂家/樂吉左衛門』がいるが『永楽家』は主に伝世品の写しなどを作っており『樂焼』のみの『樂家』とは住み分けがなされている。

​永楽家の祖先はもともと大和国・西京(現材の奈良市西ノ京)に住む「土風炉師」であり、奈良の「春日社(春日大社)」の「斎器(供御器)」を制作していたと伝えられています。

​永楽家初代/西村宗禅は『抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の師である堺の『武野紹鷗(1502年-1555年)』の依頼で「紹鷗好み」の茶の湯用土風炉を制作するようになり、以後、土風炉造りを家業とし、晩年には『土風炉師/善五郎』を名乗るようになります。

​永楽家二代/西村宗善は大阪/堺に住んでいましたが、永楽家三代/西村宗全以降は京都に定着し、茶の湯文化の発展とともに名声を高めていきました。

特に永楽家三代/西村宗全は『細川三斎(1563年-1646年)』や『小堀遠州(1579年-1647年)』らの大名茶人の支持を得ており、『小堀遠州』の用命を受けた際に『宗全』の銅印を拝領しました。この「宗全印」は以降、永楽家九代/西村宗巌まで作品に使用されました。

永楽家が​千家に出仕するようになったの、は永楽家十代/永楽了全以降だと考えらています。それ以前、永楽家は「西村」の姓を名乗っていましたが明治時代に「永楽」の姓を名乗るようになります。

永楽家という名は、中国明王朝時代の優れた陶磁器を焼いた「永楽帝時代」に由来し、『永楽家十代/了全』以降は「永楽」の姓を名乗り、茶陶の制作に取り組むようになりました。

永楽家十一代/永楽保全は文政十年(1827年)に、『紀州藩十代藩主/徳川治寶(1771年-1853年)』の別邸「西浜御殿」の「御庭焼」開窯に招かれ、作品を賞して『河濱支流(かひんしりゅう)』の金印と『永楽』の銀印を拝領。

以降、この『永楽』の印を用いると共に永楽家十二代/永楽和全の代から『永楽』姓を正式に名乗ることとなる。また歴代を遡って永楽家十代/永楽了全と永楽家十一代/永楽保全も『永楽』の名で呼ばれています。

​​​❙河濱支流❙

中国における陶磁器についての最初の歴史的記述『史記』にある

「瞬陶(ス)(二) 河濱(二)(一) 器皆不(二)苦歪(一) ~中国の聖王といわれた瞬が華河賓に陶を焼いたところ、器はすべて歪まなかった~」

という故事に因み、その流れを汲む「支流」と合わせ「河濱支流」とされた。

千家十職の中には同じく茶碗を作る茶碗師『樂家/樂吉左衛門』が存在しますが永楽家は主に「伝世品の写し」などを作っており『樂焼』のみを専門とする樂家とは住み分けがなされています。このため、永楽家の作品には、楽焼以外の多様な技法が取り入れられており、歴代の永楽善五郎によって茶陶の美が研ぎ澄まされてきました。

永楽家は、千家十職の土風炉・焼物師として、茶道の発展に欠かせない存在であり続けています。その歴史は、武野紹鷗や千利休の時代から連綿と続き、今日に至るまで、千家の茶の湯とともに歩んできました。時代の流れに応じた変化を遂げながらも、受け継がれる技と精神は、今もなお茶の湯の世界で輝き続けています。

EIRAKU ZENGOROU

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