
千家十職
10.飛来一閑 [一閑張細工師]
❙はじめに ~ 飛来一閑 ~
「千家十職」とは、千家好みの茶道具の制作を業とする十家の職家であり、日本美術(伝統工芸)の中でも特に重要な職人技を受け継いできた家々です。その技法は代々継承され、茶の湯の美と職人の美が融合した作品を生み出しています。
その千家十職の一つである飛来家は、三千家御用達の「一閑張細工師」として「棗」「香合」「盆」などをはじめ代々家元の「御好物」などの制作を業とする職家です。
飛来家の一閑張は、軽量ながらも堅牢な作りが特徴で、独特の質感と風合いが茶の湯の道具として高く評価されています。また、茶室の雰囲気に溶け込む上品な意匠や、漆仕上げによる優雅な光沢が魅力とされています。
飛来家は、茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの一閑張茶道具を代々にわたり制作してきました。その作品は、時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。
本項では飛来家の歴史とそのあゆみについてご紹介します。
それでは「一閑張細工師/飛来一閑」について詳しく見ていきましょう。
❙飛来一閑 ~ あゆみ ~
飛来家の祖は現在の浙江省杭州の西湖畔にある禅の名刹、霊隠寺の僧であったが、明末の騒乱を避けて、寛永年間(1624年~44年)、日本へ渡来。出身地の「飛来峰」からとった姓を名乗る。
『大徳寺百七十世住持/清巌宗渭(1588年-1662年)』和尚を通じて『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578年-1658年)』に引き立てられ、千家近くの小川頭に家を構え、一閑張細工をはじめたといわれています。
一閑張は木地に和紙を何層にも張り重ねたものや、張抜(木型に紙を張り、木型を抜き取る技法)などを用いて器物を作り、仕上げに漆を塗る技法です。
その独特の風合いが茶の湯(わび茶)の美意識にふさわしいとして『千家三代/咄々斎元伯宗旦』に好まれ、以降、その指導のもと約80種に及ぶ茶道具の製作を手掛けたという。また茶事に招く際は常に懐石なしの「飯後御入来で案内したところから、『千家三代/咄々斎元伯宗旦』より「飯後軒(はんごけん)」の軒号を与えられ、これより一閑張細工師 として千家に出仕することになった。
その後「飛来家五代/飛来一閑」の頃より茶筌をはじめ羽箒、円座、草履など種々の細工物や用具も取り扱うようになる。
しかし、飛来家では飛来家六代/飛来一閑から飛来家八代/飛来一閑までは当主が相次いで早世し、家業の維持が困難な時期を迎えました。その後、飛来家九代/飛来一閑は家業の再興に尽力しましたが、千家の職方も多くが被災した天明八年(1788年)一月に起こった「天明の大火」により、飛来家も罹災。家譜や初代以来の作品・印判・墨蹟などの貴重な資料の大部分が焼失しました。(※宗旦が書き記した『一閑由来記』もこの時に焼失しています)
飛来家の歴代の事績については「飛来家十一代/飛来一閑」が書き留めた記録と『大徳寺第四百十八世住持/宙宝宗宇(1760年-1838年)』和尚が文政九年(1826年)に書かれた朝雪字の下部に「飛来家初代/飛来一閑」の略歴が記されています。さらに「飛来家十五代/飛来才右衛門」の記録にも詳細が伝えられています。
『天明の大火』の困難を迎えるも飛来家十代/飛来一閑をはじめ飛来家中興の祖とも呼ばれた「飛来家十一代/飛来一閑」が飛来家の再興に尽力。
また「飛来家十一代/飛来一閑」の頃より、通称「才右衛門(さいうえもん)」とし、剃髪後に「一閑」を名乗るのがしきたりとなる。
飛来家十四代/飛来一閑は後継者となるべく育てた二人の息子を太平洋戦争の徴兵による戦死でなくし、のちに婿養子として迎えた飛来家十五代/飛来一閑は大成する前に急逝。
現在はその娘である「飛来家十六代/飛来一閑」が夫と共に家業を支えている。