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茶道の歴史

07.茶道の飛躍 ~ 江戸時代 (前期) ~

❙はじめに ~ 茶道の飛躍 ~

「茶道の歴史」では茶の起源から今日までの流れを全10回に分けて解説し各時代における重要な史実をピックアップしてご紹介します。

前項までで取り上げた乱世の時代は『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』の死をもって終焉を迎え、江戸幕府の成立とともに天下は太平の時代を迎える事となります。

しかし茶道史上最大の功労者である『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』が自刃したことで茶道はどのような変遷をたどることになったか?また『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が提唱した茶道は誰に受け継がれ、後世にどのように伝えられたのか?

本ページでは『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が大成させた茶道が江戸時代にどのように発展し、広がっていったのかを紐解きご紹介いたします。

​それでは「茶道の飛躍」について詳しく見ていきましょう。

❙大名茶の終焉 ~ 茶道の飛躍 ~

江戸時代(1603年-1868年)を迎え、天下は徳川幕府のもとで安定し、それまで政治と密接に結びついていた茶の湯の政治的役割は次第に薄れていくこととなります。

『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の死後、『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544年-1615年)』、『遠州流創始者/小堀遠州(1579年-1647年)』、『[大名]石州流開祖/片桐石州(1605年-1673年)』、が徳川将軍家の「茶の湯指南」

として活躍。

しかし『遠州流創始者/小堀遠州』の死によって天下人の茶の湯の時代は幕を閉じることとなります。

​そこで新たに茶の湯の維持、発展に大きな役割を果たしたのが「利休七哲」と呼ばれる下記の七人の武家大名たちでした。(※選定される人物については諸説あり)

・『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563年-1646年)』

・『[武将/利休門三人衆/利休七哲]芝山(監物)宗綱(生没享年不詳)』

・『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556年-1595年)』

・『[武将/利休七哲]高山(右近)重友(1552年-1615年)』

・『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544年-1615年)』

・『[武将/利休七哲]瀬田(掃部)正忠(1548年-1595年)』

・『[武将/利休七哲]牧村(兵部)利貞(1546年-1593年)』

​​ 江戸時代初期はまだ幕府の組織もが十分に成熟しておらず、諸藩大名家も経済的に安定した人材を求めていました。この時代、諸藩大名家と豪商たちとの間を取り持ったのが「茶の湯」の文化的影響力でした。茶の湯は経済や人脈を結ぶ必要な手段となる。

❙茶の湯の流儀化 ~ 三千家の誕生 ~

​江戸時代(1603年-1868年)初期の茶の湯は、主に大名や豪商など一部の限られた階層に親しまれていたが江戸時代中期になると町人階級が経済的に台頭し、茶の湯の在り方も再考され、より多くの人々に広がることとなる。

新たな広がりを見せた茶の湯に参入した町人階級を迎え入れたのが、元々町方の出自である「三千家」と呼ばれる『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の直系の曾孫たちによって形成された3つの流派で「三千家」は茶の湯の流儀を確立する重要な役割を果すこととなる。

『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の死後、その息子である『千家二代/千少庵(宗淳)(1546年-1614年)』は、『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』より千家の再興を許され、京都・本法寺門前の屋敷に「[茶室]不審庵」「[茶室]残月亭」などの茶室を建て、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の茶の湯を維持・継承することに尽力。

その『千家二代/千少庵(宗淳)』の子『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578年-1658年)』は当初『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529年-1611年)』のもとで禅僧として修業していたが『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』没後の文禄年間(1592-1596)に千家に戻り「茶人」としての道を歩むことになる。

『千家三代/咄々斎元伯宗旦』の三人の息子(下記)たちはそれぞれ異なる流派を確立し、「三千家』の成立および『茶の湯』の流儀化が確立することになる。

 

​・三男の『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613年-1672年)』が表千家

・四男の『裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622年-1697年)』が裏千家

・次男の『武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605年-1676年)』が武者小路千家

『表千家四代/逢源斎江岑宗左』は父『千家三代/咄々斎元伯宗旦』から『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の「点前」「作法」「道具」「茶室」などの言い伝えを受け継ぎ、多くの聞書を書き残した。その中でも「江岑夏書」は千家茶道の基本を伝える重要な書物とされている。

​​三千家の三人の息子は大名家へ「茶堂」として仕官し、大名家との関係を強固とした。これにより「茶家」として地位を確立し『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の教えを伝承するとともに茶の湯の流派として自立・確立していくための第一歩を踏み出すことになる。

・三男の『表千家四代/逢源斎江岑宗左』は紀州/徳川家

・四男の『裏千家四代/臘月庵仙叟宗室』は加賀/前田家

・次男の『武者小路千家四代/似休齋一翁宗守』は高松/松平家​​​​

​​

​こうして三千家の流儀化が確立されたことにより、茶道は武家から町人階級へと広がり、今日まで続く日本の伝統文化として発展していくこととなった。

❙江岑夏書❙

―こうしんげがき―

『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』自筆の茶書(上下二巻)。寛文二年(1662)から翌年七月にかけて、とくに『夏安居(陰暦の四月十六日から七月十五日まで僧がこもって修行をする期間)』に記されたため「夏書」と呼ばれる。

❙宮中茶道の復活 ~ 茶道復興の礎 ~

安土桃山時代(1573年-1603年)に『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』によって宮中に持ち込まれた茶の湯は一時的に盛んになったもののその後は定着せず沈静化。

しかし京都『鹿苑寺/金閣寺』の『[金閣寺/住持]鳳林承章(1593年-1668年)』が書き綴った日記『隔瞑記』によると『百八代/後水尾天皇(1596年-1680年)』の弟である『[五摂家]近衛家十九代当主/近衛信尋(1599年-1649年)』をはじめ、公家や門跡、近臣などが参加した「口切茶会」のようすが記されており、書院での食事にはじまり、茶屋での茶会さらにその後の遊宴などが詳細に記されている。

​​その子である『[第百十一代天皇]後西天皇(1638年-1685年)』もまた幼少より茶の湯を学び父『[第百八代天皇]後水尾天皇』と同様に遊宴をともなった茶会を催している。しかし譲位して上皇になって以降は遊宴を排し、三畳台目の「茶室」のみで一会に終始するようになったという。さらに「野上焼」などの好みの焼物を焼かせそれを自身の茶会に用いるなど従来の『禁中茶会』とは異なる新たな展開を見せている。

その後『[第百十一代天皇]後西天皇』の茶の湯は『[公家]近衞家熈(1667-1739)』によって継承され「御流儀」として流儀化されることとなる。

❙職家の役割 ~ 茶道具を造る ~

日本独自の「茶室」という空間で行われる茶道においては、「季節」や道具の「取り合せ」、「作法」が重視され、それに調和するように「茶道具」には高い利便性が求められます。

​茶の湯の大成者である『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』は『樂家初代/長次郎(不詳-1589年)』の茶碗や京釜師である『[釜師]辻与次郎(生没年不詳)』の釜など、独特の美意識に基づいた「茶道具」を好んで使用している。

また『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578年-1658年)』は祖父である『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の茶風を継承しようと職人たちを指導し、『利休好み』の作品を制作できる職人を重用したとされる。

​「茶道具」を制作する職人の特徴として、他の芸術作家や工芸作家とは異なり『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の『御好』の形や色を代々受け継ぐ点が挙げられる。

 

茶道具を造る職人たちは三千家御家元の御好物道具の制作を中心に、その時代の各家当主による創意工夫を施した「茶道具」を制作し続けている。

今日では三千家御家元の御好物道具の制作を主とする十の職家が『千家十職』として日々研鑽を重ね茶の湯の発展に尽力している。

​​​​​『千家十職』については別ページにて解説>>>

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