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茶道の歴史

10.近代茶道の幕開け ~ 大正時代-今日 ~

❙はじめに ~ 近代茶道の幕開け ~

明治維新後の茶の湯の衰退であったが『数寄者』の活躍により茶の湯は再興。

しかし昭和時代(1926-1898)を迎えるとともに再び戦争の時代へと突入することになり、茶の湯のみならず日本国が動乱の時代を迎える事となが終戦を迎えると共に今日私たちが学ぶ『茶道』への幕が本格的に開けることとなる。

そしてその中で大きな役割を果たすことになるのが今までの茶道史上、現れる事のなかった『女性』たちの活躍となる。 

第10/10項の最終章ではなぜ近代茶道を作り上げたのが『女性』だったのか?なぜ『女性』が茶道界に進出して来たのか?その歴史の一端をご紹介したいと思います。

❙近代茶道の幕開け ~ 茶道が教育になる ~

太平洋戦争開戦前の昭和十五年(1940)頃を境に数寄者の茶の湯が衰退していく中で、再び『三千家』の御家元を中心とする流儀の茶の湯が大きな復興を見せていくこととなる。

その様子を伺う出来事に同年に行われた『利休居士三百五十年遠忌』があげられ、その「法要」では『三千家』によって「法要」と「茶会」が催されることになるが、その「法要」において明治維新の頃にほとんど弟子がいなくなったことが嘘のように、再びたくさんの茶道を学ぶ人々が参加したといい、また近代茶道の大きな特徴の一つとしてその多くの参列者が『女性』であったことがあげられる。

​その理由に明治政府がとった欧化政策の一環により女性教育の中に茶の湯がとり入れられたことがあげられ、当時の『女性』にとって『茶道』が必須の教養となったことが推測される。

​その後、三千家の御家元を中心とする茶の湯の隆盛は、戦後にもかかわらず順調に発展をとげ、日本を代表する伝統文化として国内外で広く認められ今日に至ることとなる。

❙献 ~ 献茶が大衆を魅了 ~

明治十三年(1880)、はじめて神仏に『茶』を献じる『献茶式』が京都『北野神社(現:北野天満宮)』で行われて以降、今日に至るまで全国各地で盛んにおこなわれることになる。

​明治三十一年(1881)の『豊太閤三百年忌祭』では京都/東山の『豊国廟』での『献茶式』に合わせて四十カ所あまりの寺社を会場に二十日以上にわたって茶会が開催されている。

昭和十一年(1936)には京都『北野神社(現:北野天満宮)』で天正十五年(1587)に『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』がおこなった『北野大茶湯』から三百五十年になるのを記念し『昭和北野大茶湯』が行われ『献茶式』に続いて十月八日から五日間にわたり『北野神社(現:北野天満宮)』をはじめ京都/鷹峯『光悦寺』、京都/紫野『[臨済宗]大徳寺』など市内三十カ所で『茶会』が行われている。

 また『[実業家]野村徳七[得庵] (1878-1945)』『[実業家/鉄道王]根津嘉一郎[青山](1860-1940)』『[豪商]鴻池善右衛門』らの数寄者をはじめ当時の茶道具商、家元社中らが席主となった百席以上に一万人以上が参加した一大催しとなる。

更に昭和十五年(1940)四月二十一日から四日間に『千利休三百五十年忌』がおこなわれ二十一日の献茶式の様子はラジオで実況中継されることになる。また翌二十二日からは『[臨済宗]大徳寺』山内七カ所に設けられた茶席で三日間にわたり『茶会』が催され、四日間で五千人を超える参列者を迎えたという。

さらに同時に行われていた朝日会館での記念講演には学生やサラリーマンで満員となったという。

❙今日の茶道 ~ 茶の湯文化の今 ~

今日の急激な文明の発展にともない人と人との繋がりが薄くなり、心の渇きを感じる現代社会の中において『茶道』は心を癒すと共にその『美』に対する沸きあがる感情が、自身が日本人であることに気づかされるものでもあるのではないでしょうか。

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