
茶道の歴史
茶道史年表
❙はじめに ~ 茶道史年表 ~
前項まででご紹介した茶道の歴史を時系列で整理し、重要な出来事を茶道以外の出来事と共にまとめました。
茶道以外の出来事と比較することで私達が今まで知る日本史の中において茶道が果たした役割がどれほど重要であったかを再確認することができます。
あらためて本ページにて今日までの茶道のあゆみを探求してみましょう。
❙年表 ~ 茶道史 ~
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年
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年
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794年
❚延暦十三年❚
★平城京遷都
815年
❚天平二十年❚
『第五十二代天皇/嵯峨天皇(786-842)/57歳』行幸の際に訪れた近江国/大津の「際梵釈寺」にて住職の『[梵釈 寺]永忠(743-816)』より「茶」を献じられる。その後『第五十二代天皇/嵯峨天皇(786-842)/57歳』は「近江」「丹波」「播磨」などの諸国に「茶」の栽培を命じる。
879年
❚元慶三年❚
宮中行事である『[宮中行事]季御読経』において僧侶に「茶」が供される。
894年
❚寛平六年❚
★遣唐使廃止
905年
❚延喜五年❚
宮中行事である『[宮中行事]季御読経』において僧侶に「茶」が供される。
★『[勅撰和歌集]古今和歌集』の成立
950年
❚天暦四年❚
『仁和寺御室御物実録』に茶道具が記される。
1016年
❚長和五年❚
藤原道長(966-1027)、病により茶を服すという。
1191年
❚建久二年❚
栄西(1141-1215 臨済宗の僧)、宋より茶を持ち帰り、北九州の背振山に栽培するという。
1207年
❚承元元年❚
明恵上人(1173-1232)、栄西より茶種を贈られ、京都の栂尾高山寺に植えるという。
1214年
❚建保二年❚
栄西、将軍源実朝の二日酔いに茶をすすめ、『喫茶養生記』(茶の薬効を説いた書物)を著す
1262年
❚弘化二年❚
叡尊(1201-90 真言律宗の僧)、北条実時の招きにより 鎌倉へ下向の途中、 諸宿で茶を喫する。
1283年
❚弘安六年❚
『沙石集』(鎌倉時代の仏教説話集)に、牛飼いが僧侶の飲む茶に興味を示した話がみえる。
1320年
❚元応二年❚
『仏日庵公物目録』(鎌倉円覚寺の什物を記した書物)に唐物が多く記される。
1324年
❚正中元年❚
南北朝内乱の前夜、後醍醐天皇の近臣が闘茶(飲茶勝負)をおこなう。
1330年
❚元徳二年❚
金沢貞顕(1278-1333 鎌倉幕府の執権)の書状に唐物と 茶の湯の流行が記される。
1334年
❚建武元年❚
二条河原の落書(建武政権の世相を風刺した落書)に、連歌会や茶寄合の流行が記される。
1336年
❚建武三年❚
足利尊氏(1305-58)、 『建武式目』を制定して茶寄合などの群飲逸遊を禁止。
1366年
❚貞治五年❚
佐々木道誉(1296-1373 南北朝時代の武将)、京都の大原野で百服の闘茶(飲茶勝負)を催す
1403年
❚応永十年❚
京都の東寺南大門前の一服一銭の茶売り人、東寺に対して誓約書を提出。
この頃成立した 『喫茶往来』 に「茶会」の語がはじめて登場。
1416年
❚応永二十三年❚
この年に起筆された『看聞御記』(後崇光院貞成親王の日記)に、「四種十服」の闘茶の記事がしばしばみえる。
1467年
❚応仁元年❚
★「応仁の乱(1467-1478)」
1469年
❚文明元年❚
古市胤栄(?-1505 奈良の土豪)、一族らと淋間茶湯(風呂をともなった茶寄合)をおこなう。
1476年
❚文明八年❚
『君台観左右帳記』(能阿弥奥書、座敷飾りや唐物についての書)成立。
1481年
❚文明十三年❚
村田珠光(1423-1502 わび茶の祖とされる)は、一休宗純に 参禅して「圜悟の墨跡」を与えられた。
1482年
❚文明十四年❚
足利義政(1436-90 足利8代将軍)、東山山荘(銀閣寺)に茶室の原型とされる東求堂「同仁斎」を造営。
1492年
❚延徳四年❚
★コロンブス、アメリカ大陸発見
1502年
❚文亀二年❚
[茶祖]村田珠光(1423-1502)/80歳』没。
1522年
❚大永二年❚
泉州堺今市町に千利休生まれる
1526年
❚大永六年❚
連歌師宗長の日記に、 村田宗珠(珠光の嗣子)が京都の下京でわび茶をおこなっていたことが記される。
1528年
❚享禄元年❚
武野紹鴎(1502-55)、三条西実隆(1455-1537 公家、室町時代を代表する文化人)の弟子となり、 のちに藤原定家の歌論書『詠歌大概』 を伝授される。
1533年
❚天文二年❚
松屋久政(?-1598 奈良の塗師)、『松屋会記』 を起筆。のち久好・久重によって慶安3年(1650)まで書き継がれる。
1536年
❚天文五年❚
豊臣秀吉生まれる。
1539年
❚天文八年❚
長谷川等伯生まれる
1542年
❚天文十一年❚
徳川家康生まれる。
1543年
❚天文十二年❚
古田織部生まれる
★鉄砲(火縄銃)伝来
1544年
❚天文十三年❚
山上宗二生まれる。
2月 利休、奈良称名寺の恵遵坊と松屋久政を茶会に招く。
1548年
❚天文十七年❚
天王寺屋宗達(1504-66 姓は津田、堺の町衆)、『天王寺屋会記』 を起筆。
のち宗及・宗凡によって天正18年(1590)まで書き継がれる。
1549年
❚天文十八年❚
★キリスト教伝来
1551年
❚天文二十年❚
三好実休(1528-62 戦国武将)、しばしば堺の天王寺屋を訪れて茶の湯を楽しむ。
1554年
❚天文二十三年❚
今井宗久(1520-93 堺の町衆)、天正17年(1589)まで茶会記 『今井宗久茶湯日記抜書』を筆記。
1555年
❚弘治元年❚
千利休、武野紹鴎らを茶に招き、唐絵の牧渓自画賛、高麗茶碗などを用いる。
『[茶人]武野紹鷗(1502-1555)/53歳』没
1557年
❚弘治三年❚
正親町天皇即位(~86)
1562年
❚永禄五年❚
『[茶匠]北向道陳(1504-1562)/59歳』没。
1563年
❚永禄六年❚
細川三斎生まれる。
1565年
❚永禄八年❚
松永久秀(1510-77 戦国武将)、奈良の多聞山城で千利休らを茶に招き、天下一の名物と称された「九十九髪茄子(つくもなす)の茶入」を用いる。
1568年
❚永禄十一年❚
今井宗久、織田信長(1534-82)に「松島の茶壺」「紹鴎茄子の茶入」を献上。
1571年
❚元亀二年❚
★比叡山焼き討ち
1579年
❚天正七年❚
足利尊氏(1305-58)、 『建武式目』を制定して茶寄合などの群飲逸遊を禁止。
1582年
❚天正十年❚
千利休が京都/山崎に茶室『待庵』(国宝)を建てる。
『[天下人]織田信長(1534-1582)/49歳』没
1585年
❚天正十三年❚
豊臣秀吉(1536-98)、京都御所において正親町天皇に茶を献じる(禁裏茶会)。千利休も茶堂として出仕し、正親町天皇から「利休居士号」を与えられ天下一の宗匠となる。
1586年
❚天正十四年❚
豊臣秀吉、禁中に黄金の茶室をはこび茶会をおこなう。
奈良の茶会で「宗易形ノ茶ワン」(利休の意匠により長次郎が焼いた楽茶碗)が用いられる。
1587年
❚天正十五年❚
京都「北野寺社(北野天満宮)」にて「北野大茶湯(10/1)」挙行
1588年
❚天正十六年❚
利休の高弟山上宗二、『山上宗二記』を著す。
1589年
❚天正十七年❚
千利休が修復を寄進した大徳寺山門「金毛閣」が完成し、利休の木像がかかげられる。
『[千家十職]樂家初代/長次郎(生年不詳-1589)/享年不詳』没
1591年
❚天正十九年❚
2月28日 利休、聚楽屋敷で切腹。千利休自害。(2月28日)
千家は一家離散となり、 少庵は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられる。
1594年
❚文禄三年❚
千少庵、徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで 豊臣 秀吉に許されて京に戻り、千家を再興(少庵召出状)
1598年
❚慶長三年❚
『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)/61歳』没
1600年
❚慶長五年❚
★関ヶ原の戦い
1601年
❚慶長六年❚
千宗旦、大徳寺の春屋宗園より「元叔」の号を授けられる。
宗旦は東福門院(1607-78 徳川2代将軍秀忠の娘で後水尾天皇の中宮)、近衛信尋(1599-1649 後水尾天皇の弟で近衛家18代当主)らの禁裏・公家とも交流があった。
1610年
❚慶長十五年❚
古田織部(1543-1615 千利休の弟子で徳川将軍家の茶道指南)、茶の宗匠として名をあげる。
また、織部は茶会で 「ヘウケ(道化)モノ」の茶碗を好んで用いた。
1614年
❚慶長十九年❚
千少庵没し、千宗旦が千家の家督を相続。少庵は徳川2代将軍秀忠の知遇を得た。千家には香箱を献上したことに対する秀忠の礼状(香箱の文)も伝わる。
本阿弥光悦(1558-1637 蒔絵、陶芸、書などにすぐれた上層町衆)、徳川家康(1542-1616)より 京都鷹峰の地を拝領。
★大坂冬の陣
1615年
❚慶長二十年❚
★大坂夏の陣
1616年
❚元和二年❚
『[将軍/五大老]徳川幕府初代/徳川家康(1543-1616)/75歳』没
1618年
❚元和四年❚
織田有楽(1547-1621 織田信長の弟で有楽流の流祖)、京都の建仁寺正伝院に「如庵」(国宝)を建てる。
1626年
❚寛永三年❚
『草人木』 (最初の板行茶書)出版される。
1636年
❚寛永十三年❚
小堀遠州(1579-1647 古田織部の弟子で徳川将軍家の茶道指南)、徳川家光の数寄屋御成り (茶の湯を目的とした御成り ) を迎える。
1639年
❚寛永十六年❚
★鎖国(1639年-1854年)
1642年
❚寛永十九年❚
江岑宗左、紀州徳川家に茶堂として出仕。
細川三斎(1563-1645 千利休の弟子で三斎流の流祖)、徳川頼宣(1602-71)の茶会に 招かれ、江岑宗左が茶堂として出座。
1646年
❚正保三年❚
宗旦、隠居。江岑宗左、宗旦より千家の家督を相続して表千家の基礎を固める。
1648年
❚慶安元年❚
片桐石州(1605-73 石州流の流祖で徳川将軍家の茶道指南)、江戸で江岑宗左を茶会に招く。
1652年
❚承応元年❚
金森宗和(1584-1656 宗和流の流祖)の書状に、野々村仁清の御室焼を仲介した記述がみえる。
1653年
❚承応二年❚
宗旦、又隠居(再び隠居)して、もとの隠居の二畳を「今日庵」と命名し、又隠居の家に 四畳半を建てて 「又隠」 と命名。仙叟宗室(1622-97 千宗旦の四男)は、「今日庵」を継承して裏千家の基礎を固めた。
1663年
❚寛文三年❚
『江岑夏書』(江岑宗左の聞書)が成る。
1672年
❚寛文十二年❚
随流斎、大徳寺の一渓宗什より 「随流斎」 の号を与えられる。随流斎は晩年に 『随流斎延紙ノ書』 (茶の湯の覚書)を著した。
1676年
❚延宝四年❚
『武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)/83歳』没
晩年千家にもどり、武者小路千家(官休庵)の基礎を固めた人物である。
1690年
❚元禄三年❚
「利休居士百回法要」挙行。福岡藩士の立花実山、『南方録』(利休の秘伝書)を編集。山田宗(1627-1708 宗旦四天王の一人で 宗流の流祖)、『茶道便蒙抄』 を刊行。
1700年
❚元禄十三年❚
『茶話指月集』 (千利休の逸話集)刊行される。
1716年
❚享保元年❚
『[画家/芸術家]琳派/尾形光琳(1658-1716)/59歳』没
1723年
❚享保八年❚
覚々斎、徳川8代将軍吉宗より「桑原茶碗」(唐津茶碗)を拝領。
1726年
❚享保十一年❚
近衛家熙(1667-1736 近衛家21代当主)大徳寺へ御成り 、覚々斎、如心斎によって薄茶を饗される。
1734年
❚享保十九年❚
如心斎、茶杓三十本を削って北野天満宮に寄進(北野三十本茶杓)。
売茶翁高遊外(1675-1763 煎茶道の始祖とされる)、京都に通仙亭を構え売茶活動をはじめる。
1739年
❚元文四年❚
「利休居士百五十回忌法要」挙行
1740年
❚元文五年❚
如心斎、利休150年忌に際し、大徳寺の聚光院に茶室「閑隠の席」を寄進。
1741年
❚寛保元年❚
如心斎らによって、七事式(茶の湯の新しい稽古法)が制定される。
1743年
❚寛保三年❚
『[陶工/芸術家]琳派/尾形乾山(1663-1743)/81歳』没。
1745年
❚延享二年❚
川上不白(1719-1807 江戸千家の流祖)、如心斎の許しにより、江戸で表千家流の茶の湯の普及につとめる。
1751年
❚宝暦元年❚
如心斎、子息の啐啄斎に遺言の文「云置」を残す。
1770年
❚明和七年❚
松平不昧(1751-1818 出雲松江藩主で 大名茶人)、『贅言』 を著して遊芸化した茶の湯を批判。
1787年
❚天明七年❚
酒井宗雅(1755-90 姫路藩主で 大名茶人)、松平 不昧より茶の湯の皆伝を授けられる。
1789年
❚寛政元年❚
「利休居士二百回忌追法要」挙行
啐啄斎天明の大火で焼失した千家を復興し、利休200年忌の茶事を催す。
1797年
❚寛政九年❚
松平不昧の編纂による 『古今名物類聚』 が刊行される。
1807年
❚文化四年❚
「元伯宗旦百五十回忌法要」挙行
1809年
❚文化六年❚
宗達は裏千家 8代の又玄斎宗室に茶の湯を学び、『茶旨略』 『喫茶指掌篇』 『茶則』 を著した。
1822年
❚文政五年❚
了々斎、紀州徳川家10代治宝(1771-1852)の御成りを迎え、紀州徳川家より武家門(現在の表門)を拝領。
1830年
❚天保元年❚
★「天保の改革(1830-1844)」
1835年
❚天保六年❚
玉露の製法が発明される。
1836年
❚天保7年❚
吸江斎、徳川治宝より 真台子の点前の皆伝を授けられ、利休の茶の湯的伝を伝える。(吸江斎は幼少で家元を継いだため、皆伝は一時、了々斎より治宝に預けられていた。)
1839年
❚弘化元年❚
「利休居士二百五十回忌追善茶事」(裏千家) 挙行
吸江斎、祖堂(利休堂)を改築し、利休250年忌をつとめる
1840年
❚弘化二年❚
「利休居士二百五十回忌法要」(三千家合同) 挙行。
★「アヘン戦争(1839-1840)」開戦
1847年
❚弘化四年❚
稲垣休叟(1770-1819 啐啄斎の門人)の 『茶道筌蹄』 が刊行される。
1853年
❚嘉永五年❚
★「黒船来航(ペリー来航)」
1855年
❚嘉永七年❚
★「第一回パリ万国博覧会」開催
1857年
❚安政四年❚
井伊直弼(1815-60 彦根藩主で徳川幕府の大老)、『茶湯一会集』 を著す。
1872年
❚明治五年❚
玄々斎宗室(1810-77 裏千家11代)によって立礼(椅子式の点前)が考案される
1875年
❚明治八年❚
跡見花蹊(1840-1926 跡見学園の創立者)、女子教育に茶道をとり いれる。
1880年
❚明治十三年❚
碌々斎、北野天満宮において献茶をおこなう(表千家の献茶のはじめ)。
また、この頃より各地に出向き、茶道の普及につとめる。
1887年
❚明治二十年❚
碌々斎、京都御所において明治天皇に茶を献じる。
1889年
❚明治二十二年❚
★「大日本帝国憲法(2/11)」公布
1890年
❚明治二十三年❚
碌々斎、利休300年忌をつとめる。
1894年
❚明治二十七年❚
★「日清戦争(1894-1895)」開戦
1896年
❚明治二十九年❚
益田鈍翁(1848-1938 三井物産の創立者で近代数寄者)により『[茶会]大師会』がはじめる。
1898年
❚明治三十一年❚
田中仙樵(1875-1960)、大日本茶道学会を創立。
京都「豊国神社」にて『豊太閤三百年祭大茶会』挙行
1901年
❚明治三十四年❚
「第五回パリ万国博覧会」に「日本茶」と「台湾茶」が出展される
1904年
❚明治三十七年❚
★「日露戦争(1904-1905)」開戦
1905年
❚明治三十八年❚
不審庵再度焼失。
ポルトガル人『[総領事]モラエス(1854-1929)』が茶題材にした「O culto do chá」を出版。
1906年
❚明治39年❚
『[文人]岡倉天心(1863-1913)』がアメリカで『THE BOOK OF TEA(邦題:『茶の本』)』を明治三十九年(1906)に出版惺斎、前年に火災で焼失した家元の再建をはかる。また東京・大阪に出張所を設けて茶道の発展につとめ、各地の工芸や国焼の育成にも尽力した。
1907年
❚明治四十年❚
「元伯宗旦二百回忌法要」挙行
1915年
❚大正四年❚
『[茶会]光悦会』発足
1921年
❚大正十年❚
高橋箒庵(1861-1937 三井系の財界人で近代数奇者)の編纂による『大正名器鑑』の刊行はじまる。
1923年
❚大正十二年❚
★関東大震災
1931年
❚昭和六年❚
★満州事変(1931-1933)
1932年
❚昭和七年❚
★五一五事件
1936年
❚昭和十一年❚
天正十五年(1587)、京都「北野寺社(北野天満宮)」にて開催された「北野大茶湯(1587)」の三百五十年を記念し同所にて「豊公北野大茶湯三百五十年記念大茶会(昭和北野大茶湯)」が開催される。★二二六事件
1937年
❚昭和十二年❚
★「日中戦争(1937-1945)」開戦
1939年
❚昭和十四年❚
★「第二次世界大戦(1939-1945)」開戦
1940年
❚昭和十五年❚
「利休居士三百五十回忌法要」挙行
1941年
❚昭和十六年❚
★「太平洋戦争(大東亜戦争)」開戦
1942年
❚昭和十七年❚
「表千家同門 会」を発足
1945年
❚昭和二十年❚
★「太平洋戦争(大東亜戦争)」終戦
1955年
❚昭和三十年❚
「表千家同門会」海外初の「ハワイ支部」を設立。
1964年
❚昭和三十九年❚
★東京オリンピック開催
1965年
❚昭和四十年❚
即中斎、『表千家』 (角川書店)を刊行。
1971年
❚昭和四十六年❚
即中斎は古稀記念として 『元伯宗旦文書』(茶と美舎)を刊行し、出版物による茶道の普及にもつとめた。
1990年
❚平成二年❚
「利休居士四百回忌法要」挙行
京都国立博物館にて『特別展覧会四百回忌/千利休展』開催
2020年
❚令和二年❚
★東京オリンピック開催