
茶道の歴史
02.茶の渡来 ~ 奈良時代-平安時代 ~
❙はじめに ~ 茶の渡来 ~
前項にてご紹介したとおり中国で発見され「薬」として喫されていた「茶」が本項にてついにわが国日本へ渡ってくることとなます。
わが国に「茶」が伝わることは今日における「茶道」の出発地点であり、「茶」はいつどのようにして誰が中国からわが国へ持込み伝えたのか?そして当時の人々がどのように「茶」と接していたのかを第2/10項の本ページにてご紹介していきたいと思います。
❙茶の渡来 ~ 日本へ茶がやってきた ~
はじめて日本に「茶」がもたらされたのは当時の最新文化の発信地である中国/唐代(618-907)に派遣された「遣唐使」をはじめ、後の伝教大師である『[天台宗/開祖]最澄(766-822)』や後の弘法大師である『[真言宗/開祖]空海(774-835)』などの留学僧などにより最新の文化と共に「茶」と「茶の種(実)」を日本に持ち帰ったのがはじめとされています。(※諸説あり)
また遣唐使や留学僧などにより中国/唐代(618-907)からわが国にもたらされた『茶を飲む習慣』と『茶の製法』であるが当時の中国茶は今日の烏龍茶に似ただんご状の「半発酵茶」で茶葉を蒸し、団子状に固めたもので主に保存用で砕いて湯に投じて飲む「団茶」であったと考えられている。
❙宮中行事 ~ 茶会の原型 ~
わが国に伝わった「茶」であるが当時の「茶」がどのように喫茶されていたのかを後の書物により推測することができる。
後の室町時代(1336-1573)の『[公卿]一条兼良(1402-1481)』により記された『公事根源』によると天平元年(729)『[第四十五代天皇]聖武天皇(701-756)』による宮中行事『[宮中行事]季御読経』にて一定の作法をもって行われる「引茶」がふるまわれていたという記録が残っており、そのことから奈良時代(710-794)の頃には『茶』が飲まれていた事が推測できる。
❚ 引 茶 ❚
茶園で「茶」を挽くという意から、「引茶」の字が用いられる。
飲茶方法は「団茶」を砕いて薬研で挽いて粉末状にしたのち沸騰した釜の中に投じ、「茶盞」に入れ「甘葛」「生姜」などの調味料を入れ喫する。
大同三年(808)平安京の内裏の東北隅、もと鍛冶司の場所に茶園が経営され「引茶」で使うための造茶師が置かれていという。また一定の作法をもって喫することから今日の「茶道」の原型の一つとして考えることができる。
❚ [宮中行事] 季御読経 ❚
天平元年(729)にはじまったとされ平安時代(794-1185)の終り頃まで続いた「宮中行事」のひとつ。
「東大寺」や「興福寺」などの諸寺から60~100の禅僧を朝廷に請じ三日から四日にわたって『大般若経』を読経させ国家と天皇の安泰を祈る行事であり、その中の第二日目に衆僧に「引茶」をふるまう儀式が行われていたという。のちに『[宮中行事]季御読経』は春秋の二季に取り行われることとなったが、「引茶」は春のみに行われている。また「茶」を喫する事も修行の一つであるという意から「行茶」とも呼ばれていた。
❙茶の栽培 ~ わが国初の茶の栽培 ~
わが国に伝わった「茶」はその後国内でも栽培されることとなりその様子をのちの書物が紹介している。
天正十年(1582)、日吉社の禰宜『祝部行丸(生没享年不詳)』が記した『日吉社神道秘密記』には延暦二十三年(804)、中国/唐代(618-907)に渡り、翌年に帰国し京都/比叡山に『[天台宗総本山]延暦寺』を開いた伝教大師である『[天台宗/開祖]最澄(766-822)』が「茶」を持ち帰り、比叡山の麓に「茶園」を開き「茶」を栽培したと伝えられる。(※この時の茶園は現在も滋賀県/坂本に「日吉茶園」として現存している。)
他に内裏をはじめ三河国をはじめとする東海地方にも「茶園」がありこれらの「茶」が前項の『[宮中行事]季御読経』などの際に飲まれていたとされる。また延喜三年(903)までに成立した『[貴族]菅原道真(845-903)』が記した漢詩集『菅家後集』には自身が筑後国/大宰府に左遷された際に「茶」を飲んでいたことが記されており、そのことにより九州地方でも「茶」が栽培されていたことも推測される。
❙日本後紀 ~ 最古の公式文書 ~
前項の書物『日吉社神道秘密記』は後年の天正十年(1582)に記されたものであるがわが国における公式史書の中で「茶」が記されているもっとも古い公式史書は、承和七年(840)に編纂された勅撰史書『日本後紀』とされる。その書の中の弘仁六年(815)四月二十二日の条に『[第五十二代天皇]嵯峨天皇(786-842)』が近江/韓崎(現:滋賀県大津市唐崎)へ行幸した際に『梵釈寺(滋賀県)』に立ち寄り、住職の『[梵釈寺]永忠(743-816)』より「茶」を煎じて振舞われた旨が記されており、その事柄がわが国の公式史書の中ではじめてみられる「茶」の記述である。
また『[第五十二代天皇]嵯峨天皇(786-842)』は近江行幸の二ヶ月後には「茶」の木を機内、近江、丹波、播磨などの京都周辺諸国に植えて、「茶」を献上するようにとも命じている。
❙茶の衰退 ~ 遣唐使の廃止が茶の廃止? ~
遣唐使や禅僧によってわが国にもたらされた「茶」であるが平安時代(794-1185)の中期を迎えるとともに「茶」は衰退を迎える事となる。
その大きな理由の一つに寛平六年(894)の遣唐使の廃止があげられ遣唐使の廃止は自国文化の時代が到来することを意味する事となる。そうした自国文化の到来により十世紀以降の「茶」は『[宮中行事]季御読経』などにかぎられ「茶」の歴史はしばらく中断に近い状態となる。
また当時の「茶」は今日のような「嗜好品」としての役割よりも「薬」として必要量のみを煎じて飲んだと考えられ、当時は貴族や禅僧など身分の高い人々だけが「薬」や儀式として飲むことを許された珍しい飲物であったと考えられる。
この時代では「茶」を飲む「喫茶」としてはあまり根付かず中国文化への憧れが薄れてゆくと共に「茶」に対する関心も次第に廃れていくこととなる。