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茶道の歴史

09.茶の湯の救世主 ~ 明治時代 ~

❙はじめに ~ 茶の湯の救世主 ~

「茶道の歴史」では、茶の起源から今日までの流れを全10回に分けて解説し、各時代における重要な史実をピックアップしてご紹介します。

江戸時代(1603年-1868年)後期、三千家による「家元制度」の確立によって、茶の湯の遊芸化は抑えられ「道」としての茶の湯が再び確立されました。しかし江戸幕府の崩壊とともに茶道は再び衰退の時期を迎えます。

その大きな要因のひとつが「明治維新」でした。文明開化により西欧文化が流入し、日本文化全体が弱体する中で、茶の湯もまた存続の危機に直面します。

しかしこの危機に際し三千家や大名に代わる新たなる救世主たちが現れることとなります。

本ページではその救世主たちとは誰なのか、そしてその救世主たちがどのように茶の湯復興の原動力となったのかを紐解きご紹介いたします。

​​それでは、「茶の湯の救世主」について詳しく見ていきましょう。

❙茶の湯の衰退 ~ 西欧文化の到来 ~

江戸幕府の崩壊と明治維新を契機にした文明開化により、茶の湯は急激な衰退を迎えました。その衰退の原因として茶の湯を支えてきた大名や武士の衰退、そして西欧文化の流入によって日本文化の影響力が弱まったことが挙げられます。

この時期、仏像や伝来の美術工芸品が二束三文の値で売り払われたことがあり、明治四年(1871年)の姫路酒井家の茶道具の売り立てにはほとんど買い手がつかなかったと言われている。

​もちろん茶道界も例外ではなく、明治維新後の衰退により各流派も財政的に困難に陥るが『裏千家十三代/圓能斎鉄中宗室(1872年-1924年)』は一時東京に居を移し、茶道再興に尽力。これにより有力な財界人の関心を呼ぶこととなる。

それでも困難な時代においても三千家の御家元の尽力により、茶の湯は転換期を迎え、今日に通じる形へと進化しました。これまでの遊芸的な側面を払拭し、茶道は「教養」として位置づけられるようになり、女性の教養科目にも取り入れられるようになりました。また欧米化が進む中で畳以外でも点前がおこなえる「立礼式」の発案など、茶道再興のためのさまざまな努力と発案が生まれました。

こうした困難な時代を経て、三千家の尽力により近代的な茶道の基礎が築かれるとともに三千家御家元とともに茶道復興に大きな役割を果たす救世主たちが現れることとなったのです。

❙茶の湯の救世主 ~ 数寄者の功績 ~

前項に記したように茶道史上で非常に困難な時代の中、大名に代わる救世主として登場したのが『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848年-1938年)』をはじめとする『数寄者』と呼ばれる大富豪の実業家たちです。

​ 明治三十年(1897年)頃から、財界、政界の裕福な人々が茶道をはじめとする日本文化への回帰をはかり、その莫大な財力を背景に日本文化、特に日本美術を積極的に取り入れました。「数寄者」たちは名品の「茶道具」を手に入れ、絢爛豪華な茶の湯を作り上げることとなりました。

​その代表例として明治政府で外務卿などを努めた『[政治家]井上馨(1836年-1915年)』が挙げられます。『[政治家]井上馨』は取り崩されて風呂の薪として三十円(現在の600,000円程の価値)で売られようとしていた奈良・東大寺四聖坊の茶室『八窓庵』を購入し、東京/鳥居坂の自宅に移築しました。そして明治二十年(1887年)に行われた完成披露には『[第百二十二代天皇]明治天皇(1852年-1912年)』が行幸し、維新後に衰退していた伝統文化、特に茶道が再生するきっかけとなりました。

❙大師会 ~ 日本文化を守った茶会 ~

当時、三井財閥の基礎を固めた大富豪である『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848年-1938年)』を筆頭に政財界人の有力者たちは、これまでの茶道を基盤にしながらも仏教美術などもを取り入れ、園遊会形式の新たな茶会を催していました。これらの茶会では現在「国宝」「重要文化財」に指定される数々の美術工芸品が展示され多くの人々を魅了していました。

明治二十七年(1894年) 、『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁]』は江戸時代(1603年-1868年)初期の絵師『[絵師]狩野探幽(1602年-1674年)』が秘蔵していたとされる弘法大師『[真言宗/開祖]空海(774年-835年)』の『崔子玉座右銘』一巻を入手し、翌明治二十九年(1896年)の3月21日、『[真言宗/開祖]空海』の命日に自宅にて『大師会』を開催しました。

 

この『大師会』は仏教美術を茶の湯の世界に取込んだもので従来の少人数で楽しむ茶会とは異なり、一度に多くの客人をもてなす「大寄茶会」として行われたため、参列希望者が殺到する事態となりました。

それは主催者である『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁]』は三井財閥の中心人物であり、財政界にも多大な影響力を持つことから「『大師会』に招待されなければ面目が立たぬ」と評判を呼び財界の名士が多数出席することになりました。

また西の京都では江戸時代(1603年-1868年)初期の芸術家『[芸術家]本阿弥光悦(1558年-1637年)』を偲ぶ茶会として京都・鷹峯「光悦寺」にて開催される『光悦会』が開催されました。

こうして秋に開催されるの東の『大師会』、春に開催される西の『光悦会』がわが国が誇る二大茶会として今日でも多くの茶人に愛される「茶会」として続けられています。

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❙大師会❙

―たいしかい―

明治二十七年(1894) に三井物産の創始者であり茶人でもある『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848-1938)』は江戸時代(1603-1868)初期の絵師『[絵師]狩野探幽(1602-1674)』が秘蔵していたという弘法大師『[真言宗/開祖]空海(774-835)』の『崔子玉座右銘』一巻を入手。

明治二十九年(1896)の弘法大師『[真言宗/開祖]空海(774-835)』の命日(3月21日)に自宅にて『大師会』を開催。

その後「三渓園」「畠山美術館」「護国寺」と会場を移しながら、昭和49年(1974)より「根津美術館」に引き継がれ現在でも毎年春に開催されています。

❙光悦会❙

―こうえつかい―

江戸時代(1603-1868)初期の芸術家『[芸術家]本阿弥光悦(1558-1637)』を偲ぶと共に関西茶道界の力を誇示しようとしていた『[茶道具商]土橋嘉兵衛(生没年不詳)」『[茶道具商]山中定次郎(1866-1936)』らを世話役に『[実業家]馬越化生(1844-1933)』『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848-1938)』『[実業家]三井孝弘松風庵(1849-1919)』などの賛助を得て大正四年(1915)『[実業家]三井孝弘松風庵(1849-1919)』を会長にして発足。現在では11月11日~13日の日程で東京、京都、大阪、名古屋、金沢の五都美術商が世話役となり開催されています。

❙数寄者の茶会 ~ 茶のおもてなし ~

当時、前項の「大師会」や「光悦会」以外にも多くの「数寄者」による茶会が開催されていました。 明治三十三年(1900年)には肥前国平戸藩十二代藩主『[松浦家第三十七代当主]松浦詮(1840年-1908年)』が中心となり限定十六名の「数寄者」を会員とし、持ち回りで釜を懸けるという『和敬会』が発足。初期の会員には

​・軍医総監『石黒况翁(1845年-1941年)』

・安田財閥『[実業家]安田善次郎(1838年-1921年)』

 

が在籍し、その後に​

・三井財閥『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848年-1938年)』

・『[実業家]高橋義雄[箒庵](1861年-1937年)』

・『[実業家]三井高保(1850年-1922年)』

・『[実業家]馬越恭平[化生](1844年-1933年)』

・『[実業家/男爵]団琢磨(1858年-1932年)』

などが会員として加わったという。

​この『和敬会』には当時の財政界の重要人物が多数集い大正時代(1913年-1926年)の末年まで継続されました。また同時期の明治三十五年(1902年)には関西在住の「数寄者」十八名で組織された『十八会』なども結成され、茶の湯文化の多様な展開が見られるようになりました。

❙美術館の役割 ~ 数寄者の終焉 ~

明治時代(1868年-1912年)には『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848年-1938年)』をはじめ、政財界人の数寄者たちが活発に活動しました。数寄者たちが収集した数多くの美術品や茶道具の名品の数々は今日では各人の美術館に所蔵されています。

​・三井財閥『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848-1938年)』⇒三井記念美術館

・荏原製作所/創立者『畠山一清[即翁](1881年-1971年)』⇒畠山記念館

・野村財閥『[実業家]野村徳七[得庵] (1878年-1945年)』⇒野村美術館

・東武電鉄/南海電鉄『[実業家/鉄道王]根津嘉一郎[青山](1860年-1940年)』⇒根津美術館

・東京急行電鉄創業者『[実業家]五島慶太(1882年-1959年)』⇒五島美術館

・阪急グループ創業者『[実業家/創業家]小林一三[逸翁](1873年-1957年)』⇒藤田美術館

・朝日新聞社主『[政治家/実業家]村山龍山[香雪](1850年-1933年)』⇒香雪美術館

・『[実業家]原富太郎[三渓](1868年-1939年)』⇒三渓園

 

​今日では、かつて茶会に招待されなければ鑑賞することのできなかった名品の数々が一般にも広く公開されています。​​しかしこれらの美術品が美術館に保存されるという事実は数寄者たちが他界した後、名品の数々はガラス内に収まることを意味し、かつて盛んに行われていた数寄者による茶の湯が事実上衰退したことも示しています。

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