
茶道の歴史
05.茶の湯文化の確立 ~ 室町時代 (後期) ~
❙はじめに ~ 茶の湯文化の確立 ~
「茶道の歴史」では、茶の起源から今日までの流れを全10回に分けて解説し、各時代における重要な史実をピックアップしてご紹介します。
前回の「喫茶の多様化」では、室町時代(1336年-1573年)における「茶」が庶民の間に広がり、「茶寄合」や「闘茶」などのさまざまな喫茶文化が生まれたことをご紹介しました。
本項では、そうした喫茶文化の広がりを経て、「茶の湯」が独自の文化として確立されていく過程を取り上げます。室町時代後期になると、「書院茶」における作法や美意識が洗練され、そこに禅の思想や「わび・さび」の精神が加わることで、単なる喫茶を超えた「茶の湯文化」へと発展していきました。
この時代の大きな転機となったのは、今日の日本、日本人の美意識を象徴する「わび茶」の誕生です。従来の喫茶文化では、中国伝来の豪奢な「唐物道具」が重んじられていましたが、一人の人物の登場により、簡素な「和物道具(国産の茶道具)」が価値を持ち始めます。この新たな美意識は、連歌などに見られる「不足の美」、すなわち「わび」の精神と結びつき、「わび茶」という新たな茶の様式を生み出しました。
本ページでは、こうした「茶の湯文化」の確立に至る歴史的背景を紐解きながら、その精神や形式がどのように形作られていったのかを詳しくご紹介します。
それでは、「茶の湯文化の確立」について詳しく見ていきましょう。
❙わび茶の源流 ~ わび茶の精神 ~
室町幕府の将軍である『[室町幕府八代将軍]足利義政(1436年-1490年)』は風流を愛し、静かな趣味の世界を生きていくことを好んでいたとされ、禅僧などとの交流を深めながら書院で茶を愉しんでいたと伝えられています。
その中で幕府の「同朋衆」であった『能阿弥(1397年-1471年)』の紹介により「茶の湯」を嗜む『[茶祖]村田珠光(1423年-1502年)』を招いたことが茶の湯文化の大きな転機となりました。
この『[茶祖]村田珠光』の登場により、それまでの「茶の湯」は単なる遊興の場から「わび」という精神性と結びつき「わび茶」が誕生することとなります。
『[茶祖]村田珠光』は、それまでの喫茶文化であった「酒宴」や「闘茶」を排し、庶民の間で広まっていた簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れるとともに、師である『大徳寺四十七世/一休宗純(1394年-1481年)』から学んだ「禅」の精神を「茶会」に取り入れました。
これにより、茶の湯は精神的、芸術的な要素を備えたものへと昇華し「亭主」と「客」の精神交流を重要視する「茶会」の形が確立されていきました。
この『[茶祖]村田珠光』の理念こそが今日の「茶道」の源流であり、後世『[茶祖]村田珠は「わび茶の祖」と称されるようになります。
その教えと実践は茶の湯の世界に深く根付き後の茶道の発展に大きな影響を与えました。
応永二十九年(1422年)-文亀二年(1502年)五月十五日
茶匠
❙村田珠光 (むらた・じゅこう)
応永三十年(1423年)、奈良に生まれた「[茶祖]村田珠光(1423-1502)」は十一歳の頃に奈良「浄土宗/称名寺」出家。その後、大徳寺の禅僧「大徳寺四十七世/一休宗純(1394-1481)」より禅を学び、禅と茶の境地が似ていることを学んだと伝えられる。
本来、僧であるため苗字を記される事は無いがないが現在では「村田珠光」という呼び方が定着しており近年では「しゅこう」「じゅこう」と呼称される。
また「珠光」の僧名は、浄土三部経の一つで平安時代(794-1185)中期の天台宗の僧「[源信大師]恵心僧都(生没享年不詳)」の「仏説無量寿経」の語句 「一々の珠、一々の光」からとられたという。
❙心の文 ~ 不測の美 ~
「茶の湯」の世界に突如登場した『[茶祖]村田珠光(1423年-1502年)』が「わび茶の祖」と呼ばれる理由は当時の「茶の湯」に対し初めて精神性を説いたことにあります。
その思想はかって「淋汗の茶の湯」を行っていた古市一族であり後に『[茶祖]村田珠光』の最も信頼する弟子となった『古市澄胤(1452年-1508年)』に宛てた手紙「心の文」(※後述)から読み取ることができます。
この手紙の中で『[茶祖]村田珠光』は「公家」や「武士」などの上流階級が嗜む華美な「会所」や「闘茶」といった遊びに後戻りせぬよう、弟子の『古市澄胤』を導こうとしおり、その手紙の中に次のような一節があります。
「此道の一大事ハ、和漢之さかいをまぎらかす事、肝要肝要」
すなわち「唐物道具」を重んじた「茶の湯」も良いが茶の湯において本当に大切なことは、日本の「備前焼」や「信楽焼」などの素朴な「和物道具」の価値を認め、それらを「唐物道具」と対等に扱うことであると説いています。
さらに次のようにも記しています。
「心の下地によりてたけくらミて、後まてひへやせてこそ面白くあるへき也」
これは外見だけではなく「心」を伴うことで、やがて「冷えやせた枯淡(こたん)の境地」に至ることがおもしろいと説いています。
他に後世に伝わる『[茶祖]村田珠光』の言葉に
「月も雲間のなきは嫌にて候(満月の皓々と輝く月よりも雲の間に見え隠れする月の方が美しい)」
この考えは「徒然草」にある『兼好法師(1283年-1352年)』の言葉、
「花はさかりに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは」
という、「不完全美」「不足の美」をたたえる思想と通じるものです。
さらに『[茶祖]村田珠光』は、道足りたものよりも「余白を感じさせるもの」のほうが趣深いという美意識を持ち、茶の湯にもこの精神を取り入れました。
「眺める月もいつも輝いているばかりでは面白くない、雲の間に隠れていつ出るかと期待するのがよい」
この考えこそが、「わび茶」の根幹をなすものです。
『[茶祖]村田珠光)』の「わび茶」には、こうした 「不足の美」を楽しむ心 が背景にあり、その美意識は、和歌や連歌の伝統の中で育まれたものでした。
『[茶祖]村田珠光』が築いた「わび茶」は、彼の跡を継いだ『[茶人]村田宗珠(生没享年不詳)』 や、花の名人と称された『[茶人]竹蔵屋紹滴(生没享年不詳)』、さらに『[茶人]十四屋宗伍(生年不詳-1552)』 などへと受け継がれていきます。
『[茶祖]村田珠光』が提唱した「わび茶」の精神は、のちに『[茶人]武野紹鷗(1502年-1555年)』、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』へと伝わり、やがて「茶道」として大成されることとなるのです。
❙わび茶の昇華 ~ 紹鷗の道しるべ ~
文亀二年(1502年)、「わび茶」を提唱した『[茶祖]村田珠光(1423年-1502年)』が没するが運命の巡り会わせかのちの「茶道」の発展において重要な役割を果たすこととなる『[茶人]武野紹鷗(1502年-1555年)』が同年に誕生する。
『[茶人]武野紹鷗』は『[茶祖]村田珠光』が提唱した「わび茶」の精神を受け継ぎ、それらをさらに継承し進化、完成させることとなる。
そしてそれまで遊興や儀式の一つでしかなかった「茶の湯」を「わび」の精神を基盤とした「道」へと昇華させ、今日の茶道の原型を築くこととなる。
家業(武器商人)のかたわら「茶」の宗匠としても活動した『[茶人]武野紹鷗』は従来の「会所」における広間での茶の湯でなく、四畳半の茶室において簡素な和物道具を用いる新しい茶の形式を考案する。
また『[茶人]武野紹鷗』は『[名物茶器]紹鴎茄子』をはじめてとする六十種もの「名物道具」を所蔵する富豪でありながら「無一物」の境涯を理想とし、富と簡素の相反する要素を共存させる「わび茶」を実践。
この頃の史料には
「現在の幾千万の茶道具は、すべて紹鴎が見出された」
と記されるほど、『[茶人]武野紹鷗』は茶道具の世界にも大きな影響を与えた。
名物といわれる道具を六十種も所有する一方、今日にも通ずる「自作の茶杓」や「青竹の蓋置」、「釣瓶」を水指に見立てるなど「木(木材)の美」を「茶の湯」に加えるなど『[茶人]武野紹鷗』の新しい発想は、後の茶道具の発展に多大な影響を及ぼしている。
さらにもう一つの重要な功績としては茶会の記録(茶会記)を遺しており、これが、今日の茶会記の原型となっている。
文亀二年(1502年)-弘治元年(1555年)十月二十九日
茶匠
❙武野紹鷗 (たけの・じょうおう)
文亀二年(1502年)、大和国吉野郡に生まれた『[茶人]武野紹鷗』は若年のころより当時流行していた「連歌」の宗匠を志し、二十七歳の頃には京都の公家で「和歌」の大家であった『[公家]三条西実隆(1455年-1537年)』に師事。
ここで「和歌」や「古典」を学び、鎌倉時代中期の歌論書『詠歌大概(藤原定家著)』を授かったと伝えられる。また同時に「茶の湯」を『[茶人]十四屋宗伍(生年不詳-1552年)』に学んだとされる。
その後、大阪・堺に戻ってからは京都・紫野『大徳寺』の末寺である堺の「禅宗院/南宗 庵(現:南宗寺)」にて、禅僧であり大徳寺九十世住持であった『大林宗套(1480年-1568年)』に師事し、禅の修行を行う。この際に「紹鷗」の号を得る。
❙わび茶と古典 ~ わび茶の背景 ~
『[茶人]武野紹鷗(1502年-1555年)』も『[茶祖]村田珠光(1423年-1502年)』と同様に和歌や連歌に親しみ、その美の境地を自身の「茶の湯」にも取り入れることで、「わび茶」を創造発展させていった。
『[茶人]武野紹鷗』は「わび茶」の目標として、
「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」
という言葉を遺している。
連歌の世界では、「冷えさびる・枯れる」といった表現を用いて美の境地を説いており、これは『[歌人]正徹(1381年-1459年)』の弟子であった『[天台宗]心敬(1406年-1475年)』の連歌論によるものであり、その美意識は、その弟子である「[連歌師]宗祇(1421年-1502年)」に受け継がれた。そしてこの思想は『[茶人]武野紹鷗』の師である『[公家]三条西実隆(1455年-1537年)」にも継承されている。
こうして和歌や連歌の美意識が、『[茶祖]村田珠光』や『[茶人]武野紹鷗』という「茶の湯」の先達者にも受け継がれた。そのため今日の茶道の世界においても、しばしば和歌がその境地を象徴する手段として用いられる。これは茶の湯が単なる作法ではなく古典文芸の美意識を背景に持つ精神的な営みであることを示している。
❙天下人の茶の湯 ~ 信長の野望 ~
時代は戦国時代を迎えそれまでの「飾り」や「禅」「わび」などが主役とされていた茶の湯は『[天下人]織田信長(1534年-1582年)』の登場により大きな変革を遂げることとなる。
茶道具がスポットを浴びる時代が来る。
永禄十一年(1568年)、尾張の大名であった『[天下人]織田信長』は空席であった室町幕府十五代将軍の座に『[室町幕府十五代将軍]足利義政(1537年-1597年)』を擁立しようと京都へ上洛。このとき、『[天下人]織田信長』は当時流行していた茶の湯を目の当たりにし、大きな関心を寄せるようになる。
その後、天下統一を進める中で『[天下人]織田信長』は茶の湯を巧みに政治利用していく。
「名物茶道具」を強制的に買収する「名物狩り」を実施し、配下の大名たちから名物道具を献上させ、さらに家臣の功績に応じて茶会の開催などを許可する『御茶湯御政道』という政策を実施し茶の湯を武士の権威と結び付けた。
『[天下人]織田信長』自身も集めた名物道具を用いた茶会数多く催し、茶の湯の格式を高めるとともに、それを権威の象徴として利用。こうして茶の湯は単なる趣味の領域を超え「武家礼儀」として確立されると同時に政治的な権威を帯びることとなった。
『[天下人]織田信長』が茶の湯にひとかたならぬ興味を持ったことで茶の湯は歴史上かつてないほどの隆盛を迎える。そしてこの『[天下人]織田信長』の茶の湯を支えたのが大阪・堺の商人であり茶の湯に精通した三人茶人であった。
・『[天下三宗匠]今井宗久(1520-1593)』
・『[天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591)』
・『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』
この三人は『[天下人]織田信長』の「茶頭(茶の湯の指南役)」として仕え、後に『天下三宗匠』と称されるようになる。
こうしてによって茶の湯は単なる文化的な営みではなく、政治、武家社会における重要な儀礼へと変貌を遂げることとなった。
❙茶の湯と禅 ~ 大徳寺との結びつき ~
禅僧により日本へもたらされた「茶」はその後さまざまな人物と関りながら「禅」と結びつき発展を遂げてきた。その歴史の中で、特に深い関りを持つ寺院として挙げられるのが京都・紫野にある『[臨済宗]大徳寺』である。
『[茶祖]村田珠光(1423年-1502年)』は大徳寺の禅僧である『大徳寺四十七世/一休宗純(1394年-1481年)』から中国・宋代の『[禅僧]圜悟克勤(1063年-1135年)』の墨蹟を与えられ、これを茶会に用いた。
また『[茶人]武野紹鷗(1502年-1555年)』も『大徳寺九十世/大林宗套(1480年-1568年)』から『茶禅一味』という言葉を授かり茶の湯の精神をより深めている。
さらに後に茶道を大成する『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』は、『大徳寺百七世/笑嶺宗訢(1490年-1568年)』に参禅し、禅の教えを深く学ぶことで茶の湯の精神性を確立。
また『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の出生地である大阪・堺には大徳寺の僧である『大徳寺九十世/大林宗套(1480年-1568年)』が健立した大徳寺派の寺院『南宗寺』があり、ここには多くの禅僧が来住し、多くの茶人との交流が生まれている。
また、禅における座禅の修行と同様に、茶の湯の修行も単なる知識の習得ではなく、身体と心、そして実践の三位一体によって体得するものとされている。こうして、茶の湯は「禅」との深い関わりのもとに育まれ、現在に至るまでその精神性を受け継いでいる。
このように歴代の茶人たちは『[臨済宗]大徳寺』の禅僧と深くかかわりを持ち茶の湯を育んできた。事実、「茶の湯」に影響を与えた禅僧の多くが『[臨済宗]大徳寺』 に所属しており、茶の湯が『[臨済宗]大徳寺』と強い縁を持つことは明らかである。
茶の湯が作り出す空間と時間は、俗世を離れた境地を目指すものであり、その精神性は仏教における悟りの境地と非常に近いものがある。
この「茶の湯」と「禅」の関係を象徴するものの一つが「掛軸」である。
長年の修行を積んだ禅僧の書による墨蹟を床の間に掛けることでその境地を表しており、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』は
「茶席の掛物は墨蹟がふさわしい」
と説いており、禅と茶の湯の結びつきを示している。
また禅における座禅の修行と同様に、茶の湯の修行も単なる知識の習得ではなく、身体と心、そして実践の三位一体によって体得するものとされている。こうして、茶の湯は「禅」との深い関わりのもとに育まれ、今日に至るまでその精神性を受け継いでいる。