
茶道の歴史
08.茶の湯の遊芸化 ~ 江戸時代 (後期) ~
❙はじめに ~ 茶の湯の遊芸化 ~
「茶道の歴史」では、茶の起源から今日までの流れを全10回に分けて解説し、各時代における重要な史実をピックアップしてご紹介します。
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の没後、その意思を継承し、茶の湯の発展に尽力したのが三人の孫たちでした。江戸時代(1603年-1868年)の中期に入り、太平の世になると茶の湯は武家や公家のみならず町衆にも広がりを見せることとなる。
しかし町衆に広がる一方で茶の湯が本来の精神性から逸脱し「遊びを楽しむ芸能」としての側面が強まり『遊芸』として町衆に広まってしまうという課題も生じました。
本ページではこの遊芸化を危惧した三千家はどのような対策を講じ、本来の道に茶の湯を立ち戻らせたのか、そして今日の茶道につながる三千家の役割がどのように確立されていったのかを紐解きご紹介いたします。
それでは、「茶の湯の遊芸化」について詳しく見ていきましょう。
❙三千家の役割 ~ 家元制度の確立 ~
時代の流れとともに町衆文化が発展し、茶の湯を楽しむ人々が急増すると茶の湯の教授者と弟子という関係性が生まれ、大勢の門弟をまとめるため今日の伝統芸能に広く見られる「家元制度」が確立されることになります。
「三千家」を筆頭とする家元制度が確固たる地位を築いたことで、遊芸化しつつあった茶の湯は本来の道へと回帰し、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していきました。
またこの過程で今日の茶道の根本とされる『和敬清寂』という標語が生まれ、各流派による点前の形態や茶会様式の体系化といった整備が進みました。
これにより茶道本来の精神が見直され、今日「茶道」と呼ばれる「茶の湯」が完成することとなる。
茶道文化の普及が進む中で従来の「茶室(小間)」での「茶事」を中心とした形から、多くの弟子たちを一度に指導できるよう「茶室(広間)」で稽古を考案される必要が生じました。
その結果、『表千家七代/如心斎天然宗左(1705年-1751年)』や弟の『裏千家八代/又玄斎一燈宗室(1719年-1771年)』の門下である『江戸千家開祖/川上不白(1716年-1807年)』らによって『七事式』が考案され、茶の湯はますます人気を博し、都市部だけでなく地方や農村地域にも広がっていきました。
またこの頃には千家で用いる「茶道具」を専門に制作する「職家」が確立され、時を経て「十家」が形成。これが今日の『千家十職』の原型となります。
❙七事式❙
―しちじしき―
八畳以上の「茶室(広間)」で一度に5人以上で行うのが原則とし、従来からある「茶カブキ」「廻り炭」「廻り花」を整備し「且座」「花月」「一二三」「員茶」を加えた七種類の式作法が考案されました。この七事式の制定は「茶室(小間)」での茶を中心とした「わび茶」に「茶室(広間)」での茶の要素を取り込もうとした結果であると考えられる。
❙茶道を学ぶ ~ 茶道解体新書 ~
江戸時代(1603年-1868年)後期になると茶会を催すだけでなく、茶道具の研究にも熱心に取り組む大名茶人が現れるようになります。
出雲・松江の『越前松平家七代/松平治郷(不昧)(1751年-1818年)』は門下の『姫路藩主酒井家二代/酒井忠以(宗雅)(1756年-1790年)』らに茶の湯を伝授するとともに自らデザインした茶道具を作らせている。
また自身の所持した茶道具をもとに図入りの名物茶道具集『古今名物類聚(18冊)』を実費で出版し「大名物」や「名物」などそれまで曖昧であった茶道具の格付けを確立しようと試みている。
さらに『越前松平家七代/松平治郷』は身分を越えて大坂の豪商・鴻池善右衛門家や加島屋久右衛門家といった茶の湯を嗜む豪商たちの茶会にも足を運んでいる。
この頃には茶道具名物集『茶器名物図彙』を著した大坂の『[茶人]草間直方(1753年-1831年)』をはじめ江戸の『[豪商]仙波太郎兵衛(生没享年不詳)』、伊勢の『[両替商]竹川竹斎(1809-1882)』など全国で茶を学ぶ豪商たちが活躍している。
一方『越前松平家七代/松平治郷(不昧)』のように茶道具に関心を寄せる茶人の他に茶道の精神性を探求しようと茶人も現れました。その代表的な人物が幕末の彦根藩の藩主であり江戸幕府の大老を努めた『[江戸幕府大老]井伊直弼(1815年-1860年)』です。
『[江戸幕府大老]井伊直弼』は政治家としての顔を持つ一方で茶人として『井伊宗観』を名乗り生涯で二百回以上の茶会に亭主や客人として参加。また藩窯「湖東焼」を育成し、茶道の心得をまとめた『茶湯一会集』を著している。
『[江戸幕府大老]井伊直弼』の茶道観を象徴するのが「一期一会」という言葉です。これは「その時の茶会を一生に一度と考え、悔いが無いように臨むべきである」という思想を現しています。
❙一期一会 ~ 利休の言葉 ~
前項で述べた『[江戸幕府大老]井伊直弼(1815年-1860年)』が唱えた「一期一会」。
この言葉は今日でも広く知られていますが、もともとは『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』が茶会に臨む際の心得として説いた言葉とされています。
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の高弟の一人である『[豪商/茶人]山上宗二(1544年-1590年)』が天正十六年(1588年)に記した茶道の秘伝書『山上宗二記』の中のに「茶湯者覚悟十躰」として自身の師である『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の言葉として次のように書き遺しています。
「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏ベシ」(路地に入って出るまでは生涯で二度とめぐってこない時間であると敬い亭主との時をたのしみなさい)
これが「一期一会」の原型とされる言葉です。
『[江戸幕府大老]井伊直弼』はこの心得こそが茶道の本質であると考え『茶湯一会集』において「一期一会」の四字をもって、その精神を明確に示しました。
❙茶道の世界進出 ~ 茶のおもてなし ~
今日では全国各地でさまざまな茶会が行われていますが、その中でも場所を選ばず開催できる『立礼式(立礼茶会)』という形式があります。
この形式を考案したのは江戸時代(1603年-1868年)後期に御活躍した『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810年-1877年)』で、今日では広く知られている立礼式は実に百年以上の歴史を持つことがわかります。
『裏千家十一代/玄々斎精中宗室』は公家や大名らにも広く茶の湯を広めるとともに、明治時代(1868年-1912年)になると畳文化に馴染みのない外国の方々にも気軽に茶を楽しめるようにと椅子とテーブルを用いた「点茶盤」を考案。
そして明治五年(1872年)に行われた『第一回京都博覧会』の茶会において「点茶盤」を披露し新しい茶の湯の形を示したのです。
❙煎茶の登場 ~ 茶の湯のライバル? ~
江戸時代(1603年-1868年)後期になると茶の湯とは異なる形で茶を楽しむ「煎茶」が誕生しました。
元文三年(1738年)、京都・宇治の農民であった『[煎茶の祖]永谷宗円(1681年-1778年)』(現:株式会社永谷園/祖先)は十五年の歳月をかけ新しい製茶法を研究し、風味に優れた「煎茶」を製法を確立。この新たな製茶法は「青製煎茶製法」と呼ばれ、後に日本の緑茶の主流となりました。
その後『[煎茶の祖]永谷宗円』はその煎茶を携え、江戸の『[茶商]山本勘兵衛(生没享年不詳)』(現:株式会社山本山/家祖)に販売を委託。『[茶商]山本勘兵衛』はその上品な味わいを認め「天下一」の号を附して販売を開始する。
さらに天保六年(1835年)『山本山六代/嘉兵衛徳翁(生没享年不詳)』は、宇治郷小倉の木下家において「玉露茶」の製茶法を考案。これにより、煎じて飲む「煎茶」は広く普及していくこととなる。
❙緑茶❙
―りょくちゃ―
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❙玉露茶❙
―ぎょくろちゃ―
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