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茶道の歴史

03.喫茶文化の確立 ~ 鎌倉時代 ~

❙はじめに ~ 喫茶文化の確立 ~

前項にて述べた通り平安時代(794-1185)末期の寛平六年(894)に「遣唐使」が廃止され中国文化への関心が薄れると共に長期間廃れてしまった「茶」がその後どのようにして今日の喫茶文化の原点として変貌を遂げ再び「茶」への関心が高まることとなるのか?

そして貴族や禅僧など身分の高い人々の「薬」としての「茶」がどのような時代を経て「嗜好品」としての喫茶文化を確立していくのかを第3/10項の本ページにてご紹介したいと思います。

❙喫茶法の渡来 ~ 日本最古の茶の専門書 ~

鎌倉時代(1185-1333)初期の建久二年(1191)、仏教研究のために中国/宋代(960-1279)へ渡っていた臨済宗の開祖である『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141-1215)』は「禅宗」と「抹茶法(茶の製造法や利用法)」を学び「茶の種(実)」と共に帰国。

その後、持ち帰った「茶」を筑前国/背振山に蒔き、栽培を開始すると共に承元五年(1211)に「茶」の効能、製造法、喫茶法を上下二巻の『喫茶養生記』として書き遺している。(※上下二巻からなり、上巻は薬の効用、下巻は桑の医学的効能を説いており、日本最古の『茶の専用書』とされている。)

​この『喫茶養生記』は多くの中国の文献を引用しており当時最新の医学書であったことからも「茶」にもその薬効を期待された飲物であったと考えられる。

❙茶の薬用 ~ 二日酔いには茶? ~

この時代に中国/宋代(960-1279)から持ち帰った「茶」は、それまでの「団茶」ではなく湯に溶かして攪拌して喫する「碾茶」や「挽茶」と呼ばれる粉末状のもが主流となる。

それは今日の「茶道」における「抹茶」に近いものとなるがまだこの時点では「薬用」に近い目的で喫されることが多く「嗜好品」として喫することは少なかったと思われる。

​『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141-1215)』が持ち込んだ「抹茶」は以前にあった煮だした汁を飲む「団茶」と違い現在に近い「緑茶」の粉末を攪拌して喫するため効果も強く「抹茶」は坐禅修行での眠気を覚ます効果があり、栄養補給にも良いとされ、後には禅宗寺院の生活ルールである「清規」にも「茶礼」などとして定められることとなる。

​​前項の『喫茶養生記』には「茶は末代養生の仙薬である 人の寿命を延ばす妙術である」​とあり「陰陽五行」を基とし「茶」の苦みが人体によい事を説いており、「茶」を長寿の薬と考えていたことがわかる。

​このように医療品としての効能も記しており、他に記されているさまざまな薬用効果は現在医学的に証明されているものも少なくない。​

また鎌倉幕府が編集した全五十二巻の歴史書『吾妻鏡』の中には『[鎌倉幕府第三代征夷大将軍]源実朝(1192-1219)』の妻『北条政子(1157-1225)』が創建した鎌倉『寿福寺』の住職となった『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141-1215)』は建保二年(1214)、二日酔いで苦しんでいた『[鎌倉幕府第三代征夷大将軍]源実朝(1192-1219)』に加持祈祷を依頼され「一服の茶」と茶の徳を誉める所の書として『喫茶養生記』を献上。

その後『[鎌倉幕府第三代征夷大将軍]源実朝(1192-1219)』の二日酔いはすぐに回復したという。

❙茶園の広がり ~ 茶の名産地の誕生 ~

「茶」の「薬用」が呈されるとともに「茶」を飲む習慣は近畿を中心に徐々に広がっていくこととなる。

前項の『[臨済宗/開祖] 明菴栄西(1141-1215)』から「茶」を譲り受けた京都/栂尾の『高山寺(現:世界遺産)』の華厳宗中興の祖と称される『明恵(1173-1232)』はそれを栽培し今日の『宇治茶』の基礎を作ったとされ、やがてそれらは『明恵(1173-1232)』により伊勢、駿河、武蔵などと広がり今ではそのすべてが有数の名産地として「茶」の栽培を続けている。

また奈良『[真言律宗総本山]西大寺』の僧『[西大寺第一世長老]叡尊(1201-1290)』は延応元年(1239)正月におこなわれた年始修法の結願日に西大寺復興のお礼に鎮守八幡に供茶した行事の余服を多くの衆僧たちに振舞ったとされる。(※現在西大寺で行われる「大茶盛」の名残とされている)

​さらに『[西大寺第一世長老]叡尊(1201-1290)』は鎌倉まで出向いた折には「茶」を持参し、その途中にある近江/守山、美濃、尾張、駿河、伊豆などの九ヶ所で「諸茶」を行っている。(※「関東住還記」より)

しかし高齢での移動を考えると「諸茶」より自身の『栄養補給(薬)』として飲んだのではないかと推測される。

​​​その後、南北朝時代(1336-1392)の『虎関師錬(1278-1346)』が著したという「異制庭訓往来」には当時の銘茶産地に京都各地、大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵​をあげており鎌倉時代(1185-1333)末期から南北朝時代(1336-1392)にかけては寺院を中心とした茶園は関東まで及び、「茶」の栽培が普及するとともに「茶」を喫す習慣が一般に普及していったと推測される。

​❙大 茶 盛❙

延応元年(1239年)1月16日、『[真言律宗総本山]西大寺』の僧『[西大寺第一世長老]叡尊(1201-1290)』

が西大寺復興のお礼に八幡神社に献茶した余服を民衆に振る舞ったことに由来する茶儀。

「戒律復興」をめざした「不飲酒戒」の実践として「酒盛」の代わりに「茶盛」としたことと、「民衆救済」の一貫として当時は高価な薬と認識されていた茶を民衆に施すという医療・福祉の実践という二つの意義によって、八百年近く連綿と受け継がれ今日に至る。

戒律の本質的意義である「一味和合」の理念を具現化し両手で抱え顔も隠れるほどの大きな茶碗で連客と共に助け合いながら回し飲みし結束を深める宗教的茶儀である。

​現在では4月第2土日と10月第2日曜に大々的に春秋の大茶盛式を開催している。

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❙関 東 住 還 記❙

『[西大寺第一世長老]叡尊(1201-1290)』が弘長二年(1262年)の2月から8月にかけて鎌倉に下向した際の記録を弟子の『性海』が綴った記録書。

❙茶と禅 ~ 茶と禅の融合 ~

前項の通り禅僧の『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141-1215)』により持ち込まれた「喫茶法」は「禅」に裏打ちされたものであり、この頃の中国禅院ではすでに寺院内での生活規範を定めた「禅苑清規」が用いられその中には「茶礼」がみえる。

そして『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141-1215)』以降も日本からの留学僧は続き『[曹洞宗/開祖]道元(1200-1253)』は『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141-1215)』の弟子である『[臨済宗]明全(1184-1225)』と共に中国/宋代(960-1279)へ行き四年で帰国し、その後『[曹洞宗/大本山]永平寺』を開創。

​さらに京都/紫野『大徳寺』の開祖『[大燈国師]宗峰妙超(1283-1338)』の師にあたる『[大応国師]南浦紹明(1235-1309)』も文永四年(1267)には帰国していることから前述の「禅苑清規」は確実にわが国に定着していったことが推測される。

また『[鎌倉幕府第三代征夷大将軍]源実朝(1192-1219)』をはじめとする将軍達が「茶」を飲んだことや「禅宗」の広まりとともに「禅」と「茶」の結びつきは強固なものとなり、その後「喫茶法」は精神修養的な要素も強めてわが国に普及すると共に喫茶文化が広がる事となる。

❙喫茶文化の浸透 ~ 茶は薬?それとも嗜好品? ~

前項にて正史における「茶」の登場がはっきりとしたがここでは当時その「茶」の木である「茶樹」がどの地域にて発祥したのかをご紹介していきます。

「茶樹」の起源(発祥地)には多くの諸説がありますが、中国/唐代(618-907)の『[文筆家]陸羽(733-804)』が書いた三巻十章から成る「茶」に関する世界最古の書物である『[茶書]茶経』から推測することができる。

​その『[茶書]茶経』の巻初には『ある日、牛飼いは禅僧が茶を喫すところを覗き見した際に「私にももらえないか?」と禅僧に尋ねたところ禅僧は茶というのは下記の三つの徳がある「薬」だと伝えたという。『その一つは「眠気覚まし」、その二つは「体内消化」、その三つは「性欲抑制」である。』

するとこの話を聞いた牛飼いは「そんな薬は結構です」とその場から立ち去ったという。

​この説話において牛飼いは「茶」を喫することはなかったが寺院や武家社会に限られていた「茶」が一般民衆の世界にも普及していくことを示している。

❙喫茶文化の確立 ~ 茶の湯のはじまり ~

時を経て「薬」としての「茶」が一般民衆の嗜好飲料として喫される文化が浸透していくと共に「茶」の需要も増大させその生産を地域的にも量的にも拡大することとなる。

鎌倉時代末期には喫茶を中心とした「茶寄合」などが盛んになり、また社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透し、武士の間で行われた「茶」を飲み比べ、「銘柄(産地)」をあてる「闘茶」や「茶香服(茶歌舞伎)」などの『抹茶法(茶の湯)』がいよいよ佳境に入り、「薬用」の「茶」から「茶」が「禅」と共にわが国の文化に確立していく時代が訪れる事となる。

​また当時の中国貿易から日本に中国(宋代)の「文物(唐物)」が大量に輸入されたこともこれから『茶の湯』が確立される一つの要素として大きな役割を担う事となる。

❙唐物道具の登場 ~ 茶道具の出発点 ~

鎌倉時代(1185-1333)後期から室町時代(1336-1573)初頭にかけては中国/宋代(960-1279)や中国/元代(1271-1368)へ貿易船が多数派遣され、「墨蹟」や「茶入」「天目」「花入」「香炉」「織物」などの工芸品や「書物」「薬品」などが数多く輸入されることとなり、これらは一括して『唐物』と尊重され「茶」を喫す際の『茶道具』として用いられる事となる。

またその様子について鎌倉時代(1185-1333)末期の頃に鎌倉幕府第十二代連署である『第十五代執権/金沢貞顕(1278-1333)』の手紙に「鎌倉では『唐物』を使った『茶』がたいへん流行しています」と記されている。

昭和五十一年(1976)に行われた当時の輸入状況の調査の際、中国から朝鮮半島に立ち寄り日本に向かう途中に沈没した外洋帆船からおよそ2万点にも及ぶ陶磁器などが発見され、その中には「至治三年(1323年)六月一日」と記された荷札やのちに「茶の湯」で用いる「茶入」「花入」「天目」などが発見されたことで当時「茶の湯」の道具が大量に輸入されようとしていたことがわかる。

❙闘 ~ 茶は危険なギャンブル? ~

前項の喫茶文化の確立にともない当時はさまざまな喫茶方法が行われている。

当時、飲んだ「水」の産地を当てる『闘水』という遊戯が流行しており、「茶」も武士の間で行われた『闘茶』という、「茶」を飲み比べ「茶」の「銘柄(産地)」や「品質」「味」などを当てる一種の博打が流行する事となる。

初めは『[臨済宗/開祖] 明菴栄西(1141-1215)』が京都/栂尾の『高山寺(現:世界遺産)』の華厳宗中興の祖と称される『明恵(1173-1232)』に贈られ栽培された『茶』を『本茶』とし、それ以外の産地の「茶」を『非茶』として飲み当てる簡単なゲームであったが、徐々にルールも複雑になり、時には数日間続けられ「砂金」や「刀」「唐物」などが景品に出されることもあったという。

​このような豪華な景品をかけた『[武将]佐々木道誉(1296-1306)』の『闘茶会』の様子は南北朝時代(1336-1392)に記された四十巻からなる『太平記』(作者不明)に華麗・贅沢を好む『バサラ大名』の「茶」として詳しく記されている。

しかし『闘茶』は貴族や武士から庶民にまで流行したことから室町幕府は建武三年(1336)十一月七日に政治方針を定めた法令『建武式目』の中で「闘茶は贅沢で危険な集まりである」とし禁止するが『闘茶』の人気はおさまることなくその後100年以上も続く事となる。

​❚バサラ大名❚

主に南北朝時代(1336-1392)南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。異風異体ともいうべき珍奇なものを好む美意識をいう。

佐々木道誉は「バサラ大名」の象徴的な存在で、放埒、傲慢な常軌を逸した数多くの奇行が伝えられる。

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