
千家
02.千家二代 千少庵宗淳

❙はじめに ~ 千少庵宗淳 ~
千利休の子(連子)である『千少庵宗淳(1546-1614)』とはどのような人物なのか?
そして偉大すぎた父利休が死罪となったことで罪人の息子として過ごすこととなる人生とは?
本項では少庵の出自から事績までご紹介したいと思います。
❙千少庵宗淳 ~ 出自 ~
『[父]宮王三郎三入(生没享年不詳)』と『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の後妻『[母]千宗恩(生年不詳-1600)』の子として生まれる。
『[母]千宗恩(生年不詳-1600)』が『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』と再婚したため『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の養子となり千家に入る。
しかし『千少庵宗淳(1546-1614)』は幼少の頃より先天的な病により片足に障害があり、同年代でありながら千家本家の『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』がいることなどもあり千家内での立場が弱かった事実が確認されている。
その後『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の女『[妻]亀(喜室宗桂信女) (生年不詳-1587)』を娶り天正六年(1578)には『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』が生まれる。
❙ 生 没 年 ❙
[生年] 天文十五年(1546)
[没年] 慶長十九年(1614) 九月七日
[享年] 六十九歳
❙ 出 生 ❙
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『[父]宮王三郎三入(生没享年不詳)』の子
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『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の後妻『[母]千宗恩(生年不詳-1600)』の子
❙ 名 ❙
[幼名] 猪之助
[名] 四郎左衛門 / 宗淳
[号] 少庵
[通称] めんよ(名誉)の数寄者
❙ 兄 弟 ❙
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『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』の義弟
❙ 室 ❙
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『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の六女『[妻]亀(喜室宗桂信女) (生年不詳-1587)』の夫
❙ 子 ❙
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『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』
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『[次男]山科宗甫(生年不詳-1666)』
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『[長女]ねい(生没享年不詳)』
❙千少庵宗淳 ~ 師事 ~
❙ 師 事 ❙
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[茶道]『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』
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[参禅]『大徳寺百四十世/蘭叔宗秀(-1599)』
❙ 門 下 ❙
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『[連歌師]里村昌琢(1574-1636)』
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『[千家十職]樂家/田中宗慶(1535-1595)』
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『[釜師]辻家二代/辻与二郎(1546-1614)』
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『[釜師]京名越家開祖/名越浄味(生年不詳-1638)』
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『[釜師]西村家開祖/西村道仁(1504-1555)』
❙千少庵宗淳 ~ 生涯・事績 ~
天正八年(1580)頃に上洛し大徳寺門前に屋敷を構え『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』や『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』同様に『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』の茶頭となり茶の湯の普及に尽力『めんよの(名誉)の数寄者』との評を得る。
また同十三年(1585)『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の入居によって「京都/二条堀川衣棚」に移ったが同十八年(1590)洪水のため本法寺前に移住。
天正十九年(1591年)『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の切腹後は高弟であった会津の『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556-1595)』を頼り会津若松の「鶴ヶ城」に身を潜める。
その後三年の年月を経た文禄三年(1594)『[五大老/征夷大将軍]徳川家康(1543-1616)』『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556-1595)』の嘆願により文禄三年(1594)に赦免され『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』所持の道具類の返却を受け『京都/本法寺』前の地に四百五十石を賜り、利休遺跡の不審庵を再興。
文禄四年(1575)初秋には『大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)』に利休号の解義をもとめている。
以後の茶匠活動は盛んで大徳寺の『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)』『大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)』『大徳寺百四十一世/雲英宗偉(1559-1603)』らと詩歌や俳諧をするなど交誼も厚く、特に『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の高弟であった『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563-1646)』からは格別の恩顧を受ける。
『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』が堺の千家本家を継ぎ、後嗣を得ないまま早々に断絶したため、京の千家を継いだ『千少庵宗淳(1546-1614)』が本流となり『千家』を継承。
『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』の『剛(動)』に対して『千少庵宗淳(1546-1614)』の茶は『柔(静)』と評されたという。
しかし『千少庵宗淳(1546-1614)』はわずか数年で隠居し、家督を『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』に譲っている。
その後は生涯「仕官」もせずに茶の湯の普及に尽力したという。
❙ 号 ❙
『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』から『少』の『扁額(斎号)』を授かる。
❙ 茶 室 ❙
『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の切腹後の『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556-1595)』に匿われている期間に福島県の会津若松市に茶室『麟閣』を創っている。
『千少庵宗淳(1546-1614)』が赦免により京に戻った後も大切に使用されたという。
❙ 御 好 ❙
『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』との合作をはじめ『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の流れを汲んだわびたものなど御好茶道具や書付道具は後世に多く伝えられている。
❙辞世の句❙
「末期一喝・倒破牢関・活機転去・緑水青山」
と辞世の句を残している。