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千家

02.千家二代 千少庵宗淳 

千少庵_落款

❙はじめに ~ 千少庵宗淳 ~

「千家」では、今日の茶道において重要な役割を担う「千家」について詳しく解説いたします。「千家」とは、茶の湯を大成した『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の道系を継承し、代々茶道の伝統を守り続ける家系の総称です。

「千少庵宗淳」では、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の子(連子)である『千家二代/千少庵宗淳(1546年-1614年)』の生涯に焦点を当て、彼の歩んだ道を詳しく紐解いていきます。

『千家二代/千少庵宗淳』は、偉大な父・『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の子として生を受けました。

しかし、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』の怒りを買い、死罪となったことで、『千家二代/千少庵宗淳』は「罪人の子」として辛酸を舐める人生を余儀なくされます。そんな逆境の中で、彼はどのように生き、後に「千家再興」の礎を築くことになったのか。

本項では、『千家二代/千少庵宗淳』の出自から事績に至るまでを解説し、茶道史における彼の役割と功績について詳しくご紹介いたします。

それでは、「千少庵宗淳」について詳しく見ていきましょう。

❙千少庵宗淳 ~ 出自 ~

『千家二代/千少庵宗淳(1546年-1614年)』は『[父]宮王三郎三入(生没享年不詳)』と『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の後妻である『[母]千宗恩(生年不詳-1600年)』との間に生まれる。 

その後、『[母]千宗恩』が『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』と再婚したことにより、千家の養子となり、千家の一員として育てられることとなります。

しかし『千家二代/千少庵宗淳』は幼少の頃より先天的な病により片足に障害を抱えており、また、同年代でありながら千家本家の『[義兄]千(道安)紹安(1546年-1607根)』がいたことなども影響し、千家内での立場が弱かった事実が歴史史料より確認されている。

その後『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』の娘である『[妻]亀(喜室宗桂信女)(生年不詳-1587年)』を娶り、天正六年(1578年)には長男である『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』が生まれる。

❙ 生 没 年 ❙

[生年] 天文十五年(1546)

[没年] 慶長十九年(1614) 九月七日

[享年] 六十九歳

 

❙ 出 生 ❙

  • 『[父]宮王三郎三入(生没享年不詳)』の子

  • 『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の後妻『[母]千宗恩(生年不詳-1600)』の子

 

❙ 名 ❙

[幼名] 猪之助

[名] 四郎左衛門 / 宗淳

[号] 少庵

[通称] めんよ(名誉)の数寄者

 

❙ 兄 弟 ❙

  • 『[義兄]千(道安)紹安(1546-1607)』の義弟

 

❙ 室 ❙

  • 『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の六女『[妻]亀(喜室宗桂信女) (生年不詳-1587)』の夫

 

❙ 子 ❙

  • 『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』

  • 『[次男]山科宗甫(生年不詳-1666)』

  • 『[長女]ねい(生没享年不詳)』

❙千少庵宗淳 ~ 師事 ~

❙ 師 事 ❙

  • [茶道]『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』

  • [参禅]『大徳寺百四十世/蘭叔宗秀(-1599)』

 

❙ 門 下 ❙

  • 『[連歌師]里村昌琢(1574-1636)』

  • 『[千家十職]樂家/田中宗慶(1535-1595)』

  • 『[釜師]辻家二代/辻与二郎(1546-1614)』

  • 『[釜師]京名越家開祖/名越浄味(生年不詳-1638)』

  • 『[釜師]西村家開祖/西村道仁(1504-1555)』

❙千少庵宗淳 ~ 生涯・事績 ~

天正八年(1580)頃に上洛し大徳寺門前に屋敷を構えました。

『[養父]抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』や『[義兄]千(道安)紹安(1546年-1607年)』と同様に『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』の茶頭となり、茶の湯の普及に尽力。その活躍により『めんよの(名誉)の数寄者』との評を得る。

​同十三年(1585年)、『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』の入居によって京都・二条堀川衣棚に転居。しかし同十八年(1590年)の洪水のため再び本法寺前に移住。

❙利休没後❙

天正十九年(1591年)、『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』が切腹すると、高弟であった会津の『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556年-1595年)』を頼り、会津若松の「鶴ヶ城」に身を潜める。

その後、三年の年月を経て、文禄三年(1594年)に『[五大老/征夷大将軍]徳川家康(1543年-1616年)』や『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷』の嘆願により赦免。『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』の遺愛の茶道具の返還を受け京都・本法寺前の地に四百五十石を賜り、利休遺跡の「不審庵」を再興。

​翌、​文禄四年(1595年)の初秋には『大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544年-1595年)』に「利休号」の解義を求めるなど茶の湯の精神をさらに深く追究していきました。

 

赦免後は茶匠として活動を盛んに行い大徳寺の名僧たち―『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529年-1611年)』『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532年-1597年)』『大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544年-1595年)』『大徳寺百四十一世/雲英宗偉(1559年-1603年)』―らと詩歌や俳諧を通じて交誼を結びました。

特に『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』の高弟であった『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563年-1646年)』からは格別の恩顧を受けたと伝えられる。

❙千家の継承❙

『[義兄]千(道安)紹安(1546年-1607年)』が堺の千家本家を継ぎましたが、後嗣を得ないまま早世したため断家。京の千家を継いだ『千少庵宗淳』が千家の本流となる。

​『[義兄]千(道安)紹安』の「剛(動)」』に対して『千少庵宗淳』の茶は『柔(静)』と評され利休の精神をより穏やかに受け継いだといわれています。

しかし『千少庵宗淳』はわずか数年で隠居。家督を『[長男]修理(のちの『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』)』に譲り、その後は生涯「仕官」をせず、茶の湯の普及に尽力したという。

❙ 号 ❙

『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529年-1611根)』から『少』の字を含む『扁額(斎号)』を授かり、これにより「千少庵」と名乗るようになる。

 

❙ 茶 室 ❙

『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』の切腹後、『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556-1595)』に匿われている期間に福島県の会津若松市に茶室『麟閣』を創建。後に赦免により京に戻った後も大切に使用され続けたという。

 

❙ 御 好 ❙

『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』との合作をはじめ『[養父]抛筌斎千宗易(利休)』の精神を汲んだ「わび」た趣のある茶道具を好み、その流れを汲む「御好茶道具」や「書付道具」が後世に多く伝えられています。

 

❙辞世の句❙

以下の辞世の句を遺している

「末期一喝・倒破牢関・活機転去・緑水青山」

訳)死の間際に迷いを断ち切る一喝を放ち、生死の執着を完全に断ち、悟りの境地へと自由に旅立つ。そこには、何の束縛もない、ただ青い山と緑の水が広がるのみである。

​辞世の句は、茶の湯の精神と禅の教えを体現したものであり、最期まで静かに、そして自由に生きることの大切さを示していると考えられます。

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