
千家
03.千家三代 咄々斎 元伯宗旦

❙はじめに ~ 元伯宗旦 ~
千利休の孫にあたり、千家の復興に尽力した『千少庵宗淳(1546-1614)』を父に持つ『咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』とはどのような人物でどのように一度衰退した千家を再建できたのか?
そして今日の茶道へと続く宗旦の息子たちがどのように三千家を建立することとなったのか?
本項では宗旦の出自から事績までご紹介したいと思います。
❙元伯宗旦 ~ 出自 ~
❙ 生 没 年 ❙
[生年] 天正六年(1578)
[没年] 万治元年(1658) 十二月十九日
[享年] 八十一歳
❙ 出 生 ❙
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『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』の長男
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『[祖父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の六女『[母]亀(生没享年不詳)』の長男
❙ 名 ❙
[幼名] 修理
[名] 宗旦
[一字名] 旦
[通称] 詫び宗旦 / 乞食宗旦
[号] 咄々斎 / 咄斎 / 元叔 / 宗旦 / 寒雲 / 隠翁 / 元伯
❙ 兄 弟 ❙
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『[次男]山科宗甫(生年不詳-1666)』
❙ 室 ❙
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『[先妻]不明』の夫
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『[後妻]宗見(生没享年不詳)』
❙ 子 ❙
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『[長男(先妻)]閑翁宗拙(1592-1652)』
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『[次男(先妻)]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)』
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『[三男(後妻)]表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』
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『[四男(後妻)]裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697)』
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『[長女(後妻)]くれ(『久田家二代/受得斎宗利(1610-1685)』の室)』
❙元伯宗旦 ~ 師事・門下 ~
❙師事❙
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[茶道]『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』
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[参禅]『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』
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[参禅]『大徳寺百四十七世/玉室宗珀(1572-1641)』
❙門下❙
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『[茶匠/宗旦四天王]宗偏流開祖/山田宗徧(1627-1708)』
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『[茶人/宗旦四天王]杉木普斎(1628-1706)』
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『[茶匠/宗旦四天王]庸軒流開祖/藤村庸軒(1613-1699)』
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『[茶匠/宗旦四天王]松尾流開祖/松尾(楽只斎)宗二(1677-1752)』
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『[茶人/儒者/宗旦四天王]三宅(寄斎)亡羊(1580-1649)』
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『[茶人]久須美疎安(1636-1728)』
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『[千家十職]飛来家初代/飛来一閑(1578-1657)』
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『[茶人]銭屋宗徳(生年不詳-1683)』
❙元伯宗旦 ~ 生涯・事績 ~
『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』と『[祖父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の六女『[母]亀(生没享年不詳)』の長男として生まれる。
(※一説には『[叔父]千(道安)紹安(1546-1607)』の子ではないかという説も呈される。)
『[祖父]抛筌斎千宗易(利休)』の意によって天正十六年(1588)の十歳の頃より大徳寺に入り『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』の元で喝食として「三玄院」に住み修行。
(※大徳寺に入ったことは『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』が『[祖父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の後妻の子であるため家督争いを避けるためにおこなわれたという。諸説あり)
得度して『蔵主』に昇ったが、文禄三年(1594年)千家の復興を成した『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』の希望で帰家。
またこの頃『[長男]閑翁宗拙(1592-1652)』と『[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)』を授かっている。
慶長五年(1600年)の頃に『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』の隠居に伴い家督を継承。
『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』に後見されつつ『[祖父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』のわび茶の完成と普及に努める。
天正十九年(1591)、『[祖父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』が『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』により自刃に追い込まれたことから、生涯政治との関わりを避け、生涯仕官の誘いは全て断り、その清貧ぶりから後に『詫び宗旦』『乞食宗旦』と呼ばれる。
しかし息子の仕官には熱心に奔走し
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前妻との子である『[長男]閑翁宗拙(1592-1652)』を『加賀/前田家』。
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次男『[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)』を『高松/高松家』。
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後妻の『[後妻]宗見(生没享年不詳)』との間に生まれた『[三男]表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』を『紀州/徳川家』。
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『[四男]裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697)』を『加賀/前田家』。
に仕官させている。
息子たちの仕官により交際も広がりの家計は一層逼迫することとなるが息子の仕官に同行する事により武家、公家などとの新しい交際もはじまることとなりこれからの千家の基盤をつくっている。
また息子たちの各大名家の仕官により『[祖父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』から受け継いだ茶道の道筋が完成したともいえるだろう。
❙ 号 ❙
慶長五年(1580) 『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』より家督を継承したことに因み『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』より『元叔』の道号を授かる。
また同十三年(1588)に『[商人]松屋源三郎久重(1567-1652)』を招いた茶会にて『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)』から授与の道号が床掛物であったという。
❙元伯宗旦 ~ 元伯宗旦文書 ~
『元伯宗旦文書』とは表千家に伝わる『咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』自筆の手紙で千家の家督を相続した『[三男]表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』に宛てた文書である。
『咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』は生涯を通じて仕官することなく、清貧に甘んじて利休のわび茶の継承に徹したと考えられてきたが、この『元伯宗旦文書』の発見によって、息子たちを仕官させるために奔走していた父親としての新たな人物像が浮き彫りにされました。
『元伯宗旦文書』には『[後妻]宗見(生没享年不詳)』をはじめ、『[長男]閑翁宗拙(1592-1652)』『[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)』『[三男]表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』『[四男]裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697)』ら家族のこと、また『咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』が実に幅広い茶の湯の交流をもっていたことなどが記されており、江戸時代前期の茶の湯を知るうえで大変貴重な『歴史史料』となっている。
近年『元伯宗旦文書』は『不審庵伝来/元伯宗旦文書』(昭和四十六年(1971)「茶と美舎」発刊)としてはじめて世に紹介され、平成十九年(2007)にはそれを一新する形で編集され『新編/元伯宗旦文書』(千宗左監修/千宗員編「不審菴文庫」発行)として刊行されている。
❙元伯宗旦 ~ 茶杓絵賛 ~
『咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』は多くの絵賛を残していますがその一つに八十歳の明暦三年(1657)に茶杓の絵を描き句頭を「チヤシヤク(茶杓)」となる賛の狂歌をしたためた『茶杓絵讃』があります。
❙茶杓絵賛❙
チヲハナレ
ヤツノトシヨリ
シナライテ
ヤトセニナレト
クラカリハヤミ
この賛において注目すべきところは「クラカリハヤミ(暗がりは闇)」という部分であり同意語であるが「闇」とは仏教で「迷い」の意味がありこの讃には「乳離れをして八歳から茶の湯をはじめたが、八十歳になってもいまだに暗中模索の状態である」という、『咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の心境をあらわしたものと解釈できる。
さらに、この讃とは別に
「鸚鵡呼貧者与茶不能喫(※鸚鵡、貧者を呼ぶ。茶を与うるも喫することあたわず)」
という語が添えられています。
❙元伯宗旦 ~ 息子 ~
『咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』は『[先妻]不明』との間に二子、『[後妻]宗見(生没享年不詳)』との間に二子の息子をもうけており『[長男]閑翁宗拙(1592-1652)』を除く三人の息子がそれぞれ
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『[三男]表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』が『表千家/不審庵』
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『[四男]裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697)』が『裏千家/今日庵』
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『[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)』が『武者小路千家/官休庵』
を興し今日に続く『三千家』が誕生することとなる。
以後、三千家では
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初代を『[祖父]抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』
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二代を『[父]千少庵宗淳(1546-1614)』
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三代を『咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』
とし、三千家では四代目から数えはじめることとなる。
長男
❙閑翁宗拙 (かんおうそうしゅつ)
文禄元年(1592年) ― 承応元年(1652年) / 六十歳
史料が少なく理由は判明しないが父『千家三代/咄々斎元伯宗旦』より勘当を受け晩年は正伝寺の塔頭「瑞泉院」に身を寄せ生涯を閉じる。
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武者小路千家開祖:次男
❙似休斎 一翁宗 守 (じきゅうさい・いちおう)
慶長十年(1605年) ― 延宝四年(1676年) / 七十二歳
一時「千家」を離れていたが千家に戻り『武者小路千家/官休庵』を創建。
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表千家開祖:三男
❙逢源斎 江岑宗左 (ほうげんさい・こうしんそうさ)
慶長十八年(1613年) ― 寛文十二年(1672年) / 六十歳
父『千家三代/咄々斎元伯宗旦』の家督と屋敷を継承し『表千家/不審庵』を創建。
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裏千家開祖:四男
❙臘月斎 仙叟宗室 (ろうげつさい・せんそうそうしつ)
元和八年(1622年) ― 元禄十年(1697年) / 七十六歳
加賀に仕官していたが師である『[医師]野間玄琢(1590-1645)』の死去に伴い帰京。それを機に父『千家三代/咄々斎元伯宗旦』は隠居を志し翌年屋敷の裏に隠居所として「今日庵」を建て隠居。その後その隠居所を継ぎ『裏千家/今日庵』を創建。
余談ではあるが師の『[医師]野間玄琢(1590-1645)』の「玄」の一字を頂き玄室と名乗る。
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